元禄8年(1695)壬生に赴任した加藤越中守明英は、その権勢を極め農民に重税を課しました。とくに 「七色の掛物」 と呼ばれる税は、農民にとって耐え難いものでした。この苦境を見るに忍びず、壬生領11ヶ村民救済のため、稲葉村賀長市兵衛・石井伊左衛門、壬生町須釜作十郎の3名が領主に訴えましたが捕らえられ、賀長・石井の両名は無惨にも打ち首となってしまいました。須釜は壬生寺大師堂の鎮守をしていたので、日光輪王寺門跡の請いにより死罪を免れました。しかし城主も、この3人の堅い決意に動かされ、ついに
「七色の掛物」 なる過酷な税を免除することになりました。
後に、村人たちは市兵衛の義侠心に感じ、当地に市兵衛八幡として神に祀りました。
(壬生町教育委員会)
八幡神社脇を流れる水路
八幡神社鳥居
市兵衛八幡由緒
境内社の石祠
遠くに見える筑波山
祠に掛かる八幡神社の扁額
八幡神社本殿
八幡神社祠