判読できない碑
南北朝の時代、南条左衛門正春という武士がいました。正春は宇都宮氏の軍勢に加わり各地で戦いましたが、運悪く戦死してしまいました。
京に住む正春の妻登美留は、夫の悲報に悲しみ、宇都宮氏に預けられていた娘の小桜を慕い旅にたちましたが、ここ稲葉の地で旅に疲れ亡くなりました。小桜は、この地で日夜母の霊を供養していましたが、小桜も病にかかり帰らぬ人となりました。
村人たちは、この母子を哀れんで、墓に2本の松を植え墓標としました。いつしか2本の松は相抱くようになり、人々から 「親抱きの松」 と呼ばれるようになりました。
昔、この地を訪れた忠臣蔵で有名な吉良上野介が、この悲しい物語を聞き 「心なき人に見せばや下野の稲葉の里の親抱きの松」 と詠んだと伝えられており、傍らの石碑に旅人の歌とともに刻まれています。
(壬生町教育委員会)
親抱きの松歌碑
親抱きの松
親抱きの松説明