判官塚古墳は、南流する黒川と思川に挟まれた台地上に位置する、市内最大級の前方後円墳です。前方部の幅が後円部の直径よりも広く発達するという墳形や埴輪の特徴から、6世紀後半に造られたものであると考えられます。墳丘には崩れを防ぐための葺石があり、所々で露出しています。また、墳丘からは須恵器のほか、県内では限られた古墳からのみ出土する 「低位突帯」 を有する円筒埴輪などが採集されています。 
 埋葬施設である石室は、後円部にあって、南側に開口しています。奥壁や天井石には巨大な石を用い、側壁は河原石を小口積みにした両袖型の横穴式石室です。現在は土砂に埋まっているため中に入ることはできませんが、昭和3年(1928)の測量では、遺体を納めた玄室の長さが4.1m、奥壁での玄室幅が2.5mとなっています。
 昭和初期の耕地整理が行われる以前は、周囲にも十数基の小円墳があり、古墳群(群集墳)を形成していたことも知られています。後円部北側に置かれている巨石は、平成17年(2005)の県営圃場整備事業に伴う発掘調査において、墳丘北側の水田内で発見されたもので、本古墳の石室材と考えられます。また、この発掘調査で、現状では見ることのできない周溝の範囲が確認されました。
 判官塚という名称は、源九郎判官義経が奥州へ向かう途中、ここに隠れたという伝承に由来しています。また、西方氏の祖とされる烏丸大納言が冠を埋めたので冠塚とも呼ばれるなど、いくつかの伝説を秘めている古墳です。
(鹿沼市教育委員会)

判官塚古墳説明

平坦な街道並み

北側真横から見た判官塚古墳

街道左手に見える判官塚古墳

大倉神社石祠

前方部塚上の桜

西上空から見た判官塚古墳(説明板より)

前方部塚上の鉄製鳥居

鳥居に掛かる大倉神社の扁額