馬頭観世音
表面が欠けた石塔
文化6年(1809)の馬頭観世音像
慶応2年(1866)の馬力神
日露戦役徴馬紀念碑
安政6年(1860)の馬頭観世音
文久4年(1864)の馬頭観世音
北赤塚一里塚標柱
西塚の西側に石造物が並んでいる
西塚の一部は削られている
北赤塚一里塚(1基)説明板
慶長6年(1601)、江戸幕府は街道の整備を始めます。慶長9年(1604)には、江戸の日本橋を起点とした東海道・東山道・北陸道に一里塚を築き、全国に普及させました。一里塚は、各街道の一里(約4㎞)ごとの印として道路の両側に設置されたもので、塚の上には土の流出を防ぐために木が植えられました。旅人にとって、一里塚は旅の目安となり、木陰は休憩所になりました。
この一里塚は、日光道中壬生通りの一里塚で、日本橋から25里目(約100㎞)にあたり、西側のみ現存しています。日光道中壬生通は、日光道中の喜沢村(現小山市喜沢)から西に分かれ、壬生・鹿沼を通って今市宿で再び日光道中に合流する約48㎞の道で、日光西街道とも呼ばれました。街道沿いには、飯塚・壬生・楡木・奈佐原・鹿沼・文挟・板橋の7宿があり、楡木で日光例幣使街道が合流しています。
慶安4年(1651)に作成された 「下野一国」 では、「赤塚北の出口より七町三十間め(約818.1m)に一里山あり」 と記載されています。江戸時代後期には、塚上に松が植えられていましたが、のちに榎に植え替えられました。この塚は、壬生通りに現存する一里塚に植えられた木の中でも巨大なもにです。
鹿沼市域では、赤塚村、奈佐原宿、鹿沼淑と富岡・武子村境の4ヵ所に8基の一里塚が築かれましたが、現存するのはこの1基のみです。日光道中壬生通りの沿線に栄えた近世鹿沼の様子を今に伝える貴重な史跡です。
(鹿沼市教育委員会)
北赤塚一里塚(西塚)跡
東塚は現存しない
馬頭観世音
馬頭観世音
明治19年(1886)の馬力神