慶長6(1601)年徳川幕府は全国支配のため、江戸と各地を結ぶ五街道の整備を始めた。奥州街道は、慶長9(1604)年、東山道(関街道)に代わり正街道となり、奥州の諸大名の参勤交代や、奥州と江戸を結ぶ、文物交流の中心的役割を果たした。奥州街道は、日本橋から宇都宮宿までは日光街道と重複し、宇都宮宿から分岐して白河へ向う。さくら市には、奥州街道のほか、会津中街道、会津西街道、原街道の結節点となり、交通の要衝地として栄えた氏家宿と、喜連川公方の城下町でもあり、また、あゆの寿司で全国的に名を馳せた喜連川宿があった。この古道は、たびたび山腹が崩壊するなど、難所のひとつであったため、明治13(1880)年迂回路が開削されたことにより、往時の姿をとどめている。

街道脇に設置された木製ベンチ

旧道口に建つ奥州街道(古道)解説

往来がほとんどないためコケが生えた古道

倒木が道をふさいでいる