新旧2体の大黒天のうち左側の古い大黒天の土台にに「不」の記号が刻んである。これは、明治9年(1876)7月に布達し、翌8月から明治10年(1877)8月の1年間、内務省地理寮(国土地理院の前身)が東京-塩釜間の高低測量(現在の水準測量)を実施したときに高低標(現在の水準点)として利用した印である。

 当時狭間田附近は一帯が水田で、不朽物が大黒天以外に見当たらなかったために、これを高低標として、記号を刻んだのではないかと思われる。

 この時、東京霊岸島水位標平均潮を0mと定め、そこを起点とし、京橋、上野を経て、北千住からは奥州街道沿いに水準測量を実施した。大黒天は45番目の高低標にあたり、狭間田新田村弥五郎坂市ノ堀橋際大黒塚、標高158.0866m(521.6858尺)という当時の測量記録が明治12年6月発行の地理局雑報第14号に報告されている。

台座に明治時代の水準点がある大黒天

明治時代の水準点解説

大黒天