近世になると江戸を中心にして諸街道が整備され、宿場や一里塚などが設けられた。一里塚は主要街道の一里ごとに目印として両側に塚を築き、榎や松などを植えた。奥州街道は日光街道と宇都宮で分岐して白河までを指し、これらの街道にも一里塚が設けられた。

 氏家地内には堂原地蔵堂南側と挟間田の二か所あったが、堂原一里塚は明治以降消滅した。挟間田の一里塚も北側は破壊され、南側に一基が現存するだけになった。

 延宝6年(1687)の宿並絵図によると、この地点は、奥州街道の北側は下松山村、南側は狭間田新田村で、一里塚は両村の宿並中央部に一基ずつ明記されている。江戸日本橋を起点として32里目にあたる一里塚である。

 奥州街道の一里塚は現存例が少なく、氏家地内唯一の一里塚として確認できるものである。

     (氏家町教育委員会)

門脇に建つ一里塚標柱

狭間田一里塚解説

狭間田一里塚跡に建つ小社