大暁句碑

墓所から佐久山宿を見下ろす

那須野ヶ原開拓の先駆者・印南丈作の墓

霧ふぶき 我が身失う 火口壁

 福原氏の始祖四郎久隆より資郡までは福原永興寺より改葬されたもので、資宣・資明・資克・資順は東京浅草曹源寺に葬られましたが、改葬されたものと思われます。福原氏歴代の墓所として、江戸時代領主層の霊屋の様式をそのまま残しています。
 那須一族の福原氏は、那須太郎資隆の四男久隆が福原に分知され、上福原といわれた片府田に館を構え福原氏を称したことに始まるとされます。戦国時代に大田原資清の子、資孝が養子に入り、永禄6年(1563))佐久山氏を滅ぼし、天正18年(1590)資孝の子、資保は豊臣秀吉の命により片府田から佐久山四ツ谷(御古屋敷)に移りました。さらに元禄15年(1702)、福原資倍がかつての佐久山城に陣屋を移し、交代寄合として佐久山3,500石の支配を行い、明治2年(1869)、資生に至り版籍を奉還しました。
  (大田原市教育委員会)

 大高家は常陸の国笠間(現茨城県笠間市)藩主浅野公の家臣であった。浅野公が播州赤穂に転封される時、長男忠宗は家督を次男忠晴に譲り、江戸に出て医学を学び、のち藩医となり、佐久山藩主福原公に仕え、その子孫は代々佐久山藩士となった。
 播州赤穂の大高家には長男源五、次男幸右衛門(長じて小野寺家の養子となる)の二児があったが当主は若死した。
 大高源五は御膳番元方として浅野内匠頭の側近く仕えたが、「子葉」と号し有名な俳人であり、また茶道を能くする風流人でもあった。
 母(ていりう)は京都の生まれであった。主君浅野家の断絶後、子達と別れてよるべのない母は、親戚に当たる佐久山大高家を頼って身を寄せていた。大高源五が、江戸へ旅立つにあたり老い行く母の身を案じ、死を覚悟して別れを告げる孝心切々たる母宛の手紙が、今も赤穂市花岳寺に残されている。ふたりの子息は赤穂義士討ち入りに加わり相果て、浅野家の菩提寺であった江戸高輪泉岳寺に葬られた。行年源五32歳、幸右衛門28歳であった。その後、母はわが子の遺髪を実相院に分葬し、自分は出家して貞立尼となり、ひたすら我が子の菩提を弔う日々を過ごした。その母も心労のためか、翌年9月、佐久山大高家で没した。行年65歳であった。
 大高家墓所の古い墓石は、河原より採取したと思われる自然石に刻してあり、その上300年の風雪にさらされて、碑文を判読することは困難である実相院の過去帳には大高親子が記されており、位牌堂には大高家の位牌が安置されている。
 佐久山では、むかし大高家の屋敷跡と伝えられる場所に、現在でも「大高屋敷」と言う地名が残されている。伝承されている「大高屋敷」の地名を、赤穂義士大高源五の母と子の物語りと共に末永く保存したいものである。

大高家墓石

赤穂義士大高源五の墓解説

福原氏墓所解説

福原氏墓所

鐘楼

実相院本堂

本堂に掛かる實相院の扁額

山門由緒

 この山門は福原刑部資倍(すけます)(1678-1728)の妻(播磨山崎藩主本多忠英の養女)が、早世した我が子の供養のため、福原家の菩提寺である実相院に正徳年間(1711-16)に建立・寄進したものであると伝えられています。
 和唐折衷の四脚門で、屋根は石葺きで当初は矢板市平野産の石が用いられましたが、平成12年(2000)山門の修復が行われた際に、屋根石の一部に大谷石が用いられました。山門上部正面及び裏面に本多家の家紋の「本」の字、その両側に福原家の紋「一」が刻まれています。この山門は佐久山宿の数度の大火にも類焼を免れ、当時の姿をそのままに伝えています。
  (大田原市教育委員会)

大高家墓石

文政8年(1825)の十九夜塔

六地蔵尊

六地蔵尊

天保14年(1843)の十九夜塔

釈迦牟尼仏

参道石段

大田原市指定文化財の山門

山門に掛かる月江山の扁額