早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(堡)を確保する上で最も重要な課題であった。

 このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされたが、その中でも、天文18年(1549)の戦は、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川方の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に射殺されるという大激戦であった。

 弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになった。

 今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建ち、古戦場の跡を示している。

早乙女坂古戦場跡上り口

鞘堂

鞘堂の大小二基の五輪塔

早乙女坂古戦場跡解説

古戦場解説

松尾弥五郎博恒之墳墓標柱

 天文18年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ退散したといわれています。