当地は元荒川と荒川に挟まれた低地に位置し、集落は旧河道の自然堤防上にある。また、かつて当地南西の荒川には大芦河岸があり、古くから日光脇往還の渡船場としても栄えた。村の開発の年代は明らかではないが、慶長12年(1607)10月の 「足立郡箕田村内大芦村御検地水帳」(堀口家文書)が残る。
 当社は大芦村の鎮守として祀られてきた社で、「風土記稿」 大芦村の項には 「氷川社 医王寺の持、稲荷社」 とある。江戸期に別当であった医王寺は真言宗の寺院で、開山賢秀の没年は明らかでないが、2世の僧秀栄は貞享3年(1686)に没したという。
 当社は 「明細帳」 によると、明治6年に村社となり、同28年に本殿を再建し、同40年には字田向の雷電社、字土橋の稲荷社とその境内社八坂社、字三人野の稲荷社・諏訪社、字新在家の蠶養社・雷電社・神明社、字氷川の雷電社・大天白社・神明社、字台の浅間社、字中内出の塞神社の計13社を合祀した。ただし、新在家の雷電社と中内出の塞神社は今も祠がそのまま残されている。
 なお、社蔵の算額は嘉永3年(1850)4月に関流の小林要吉郎勝栄一門が奉納したもので、一門は広く大芦・明用・今泉・吹上・和名・登戸・多門寺・箕輪などの各村にわたる46人で、算法上達祈願を込めたものである。

氷川神社由緒

伊勢大神宮と刻まれた文政10年(1827)の石燈籠

明治12年(1879)の常夜燈

富士登山参拝紀念碑

御寶塔と刻まれた文化14年(1817)の石燈籠

片方だけの狛犬

氷川神社拝殿

手水舎

氷川神社鳥居

稲荷社石祠

境内社

五社祀られている

氷川神社本殿覆屋

本殿覆屋に掛かる氷川神社の扁額

境内社の稲荷社