往古、行田市は忍藩として隆盛を誇っていたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めと同時に石田三成軍の2万にも及ぶ軍勢により忍城は水攻めを受けた。
忍城佐間口の守将「正木丹波守利英公」は奮闘し、城も破られることはなかったが、小田原城での篭城に参戦していた忍城城主成田氏長が敗れたため、止む無く忍城は開城した。
この戦いで丹波守は無常を悟り、水攻め彼我戦没者の霊を弔わんと発心し、武士を捨て、この佐間の地に高源寺を開基した。
開山に守天昌意和尚を迎え、一心に菩提を弔い、翌天正19年2月2日に没した。
このことは和田竜著「のぼうの城」に活写されている。
天正18年(1590)6月石田三成により2万余の兵力で包囲され水攻めされたが、城主成田下総守氏長公は小田原城救援のため不在であり、奥方を中心に城中一同一致団結してよく戦い遂に敗れなかった。
開城後当山開基正木丹波守利英は、わが命令により戦って没した彼我多数の人々の冥福を祈って成田氏の鷲山城移封に従わず、当寺に留まり追善菩提に精進し翌19年2月2日卒じた。
水攻め以来391年を経過したが、此慶善根功徳心の布主により供養塔一基を建立し、開基の大悲願をここに具現するものである。今より以降善男善女により手向けられる香華は此の地に血汐を流した多数の戦士の霊に到達するものである。
願わくは各霊位あつまり集まってこれを享けよ。
昭和56年5月8日高源寺19世
高源寺本堂
本堂に掛かる天真の扁額
高源寺山門
忍城水攻彼我戦没者慰霊の記碑
願かけ地蔵尊
高源寺由緒
普門品供養塔
享和2年(1802)の如意輪観音(二十二夜供養塔)
当山開基正木丹波守利英公之碑
安永6年(1777)の如意輪観音(二十二夜供養塔)
地蔵菩薩立像
歴代住職供養塔(卵塔)
忍城水攻彼我戦没各霊位碑
六地蔵尊