当山は、妙雲山瑠璃光院覚性寺と称し天慶三庚子年下野守藤原秀郷の草創、勧修寺別當済高大僧都の開基なり。
当山に伝わる 「蘭若叢録」 によると当時、東国の地に反乱をおこした平将門征伐の勅命を受けた秀郷が東国に赴く途中、夢に現れた翁のお告げに従い、紫雲出る松樹の下に熊野大権現(現在の熊野神社)を勧請しその霊徳により、将門を討ち取った。その後、もとの松樹より栴檀林の如く薫香たちこめ、薬師如来の尊容一体を得てこれを本尊とし、伽藍を建立した。故に、瑠璃光院と号し、瑞雲有るによって妙雲山と名づく、又のちに秀郷の法名を以て覚性寺とす。
その後、星霜六百七十有余年を経て松山城落城の砌、近郷の在家、兵火の為に塵芥に帰す、当山もその難遁れがたく一切伽藍ことごとく焼失するが唯一、薬師如来一体は難を逃れ今に伝わる。以来、当山はその薬師如来の霊験により多くの信仰をあつめたという。又、江戸文化年間には俳人一茶が旅の途中にしばし雨をしのいだとの記録もある。さらに明治の初めには、寺子屋がおかれ地域の子弟教育の場となり、現在の松山第二小学校の前身となった。
現在、真言宗智山派の寺院として弘法大師の教えと共に古来の法燈を今に伝えている。
出征軍人慰霊碑
文政3年(1820)の種子が刻まれた石塔
宝暦2年(1752)の供養塔
宝篋印塔
子安地蔵菩薩
覚性寺山門
覚性寺本堂
奉納経供養塔(左)、如意輪観音像(右)
覚性寺縁起碑
地蔵菩薩立像
天満宮
六地蔵尊
薬師堂に掛かる瑠璃閣の扁額
薬師堂
歴代住職供養塔(卵塔)
弘法大師千百五十年遠忌供養塔
聖観世音菩薩立像
宝篋印塔