佐間天神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取入口とし、天神坊を出口としたと伝えられている。その天神坊を慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請した。今から500年前のことである。享保5年(1720)12月京都の唯一神道、吉田殿より「正一位天満天神」の神格を与えられた。その後、文化10年(1800)8月25日本殿が再建された。本殿に安置される天神坐像は春日の作と伝えられている。又、境内のケヤキの樹齢は行田市教育委員会の推定によると400年とされている。
 佐間天神社には学問の神様、菅原道真公が祭神として祀られている。以前は慈眼山安養院が神護神であったが、その様子は今でも白山社、伊奈利社、厳島、明神・・・等の合祀社が多く両部神道の名残を留めている。神門は安政3年(1850)の大火で類焼したが、ここで火が止まった為、火防の門と呼ばれた。
 明治22年(1889)、佐間村、成田村、行田町が合併し忍町となり、妙音寺にあった温知学校を廃止し天神社社務所に佐間学校が開校した。正式には忍学校第三教場と言われた。大正4年(1915)3月、行田尋常小学校第三校舎(現在の新町会館)が新築されるまでここに存在したのである。

 佐間天神社の創建は成田親泰が忍城築城の折(1491)谷郷、春日社西を城の没澤の取入口とし天神坊を出口としたと古地図にある。その天神坊を慈眼山安養院とし守護神として天神社を勧請した。享保5年(1720)12月京都の唯一神道吉田家より正一位の神格を与えられ文化10年8月25日本殿を再建、明治11年拝殿再建、荒弊甚だしき為に鎮守氏子中の敬神崇視の念外殿新築の議となり茲に竣工す。
(昭和55年4月)

 天正18年(1590)に石田三成軍の忍城攻めの時、忍城主成田氏長重臣正木丹波守利英は 「佐間口」 と呼ぶ場所で守りを固め、死闘を繰り広げたと伝えられています。
 佐間天神社付近はちょうど 「佐間口」 にあたり、正木丹波守利英の屋敷も当地にあったと伝えられています。
(佐間鎮守 天神社)

天保6年(1836)の常夜燈

境内社の稲荷神社

佐間学校跡碑

手水舎

佐間天神社神門

神門に掛かる天満社の扁額

佐間天神社縁起

天神社外殿新築記念碑

正木丹波守利英ゆかりの地

境内社の三峯神社

佐間天神社本殿覆屋

拝殿に掛かる天満宮の扁額

神楽殿

狛犬

佐間天神社拝殿

佐間天神社鳥居

狛犬