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日光街道   (栗橋~間々田)


平成28年10月7日(金) ☀|☁  栗橋~間々田  16.3㎞
本日は、昨日の続きの利根川橋からの街道歩きとなる。午前6時30分に栗橋駅に到着し、昨日行けなかった八坂神社近くの経蔵院に寄って行くこととした。この寺は静御前ゆかりの寺である。今日も天気は終日良さそうである。

経蔵院 香取神社 利根川橋 中田関所跡
八坂神社の近くに真言宗豊山派の愛宕山経蔵院がある。
経蔵院は、貞観年代(9世紀後半)の慈覚大師の創建と言われ、保元の頃(12世紀半ば)には下河辺の荘司であった下河辺行平から寄進を受けて隆盛したと云われている。
経蔵院には静御前にまつわる伝説が伝えられている。
経蔵院に隣接して香取神社がある。
香取神社の創建年代等は不詳であるが、ほぼ経蔵院の敷地と一体化しているので、かつては一緒だったと思われる。
境内には、大弁財天碑、伊勢太々講記念碑、イチョウの大木がある。
昨日の続きの利根川橋に出ると、日の出直後でやや薄曇りのため、利根川が鏡のように見えている。
橋の中間辺りで茨城県古河市に入り、橋の右手にぼんやりと筑波山が見えている。
利根川橋の渡り詰めを左折して土手沿いの道を下って行くと、突当りに中田関所跡がある。
ここには 「房川渡と中田関所跡」 の解説板が建っているが、文字はほぼ消えており、全文は判読できない。

中田宿解説 鶴峯八幡宮 光了寺 円光寺
中田関所跡から程なく、利根川堤交差点の右手に建つ半鐘櫓の下に中田宿解説が建っている。
当初、中田宿は利根川に面した場所にあったという。
街道を進むとスーパーあきばの隣に鶴峯八幡宮の一の鳥居があり、その先に社殿がある。
社伝によると、鎌倉時代に源頼朝もしくは二代将軍源頼家が、鎌倉の鶴岡八幡宮の神主高橋氏をもって創建させ、のち天福2年(1234)下総国一の宮である香取神宮を祀って、八幡と香取の相殿にしたといい、中世には栗橋方面まで勢力をもった有力な神社であったという。
鶴峯八幡宮を過ぎると、直ぐ左手に真宗大谷派の巌松山光了寺がある。
山門を入ると右手に宝物殿があり、文化財に指定された聖徳太子立像、静御前の守本尊・蛙蟆龍(あまりょう)の御衣、源義経の懐剣・鐙など寺宝が所蔵されている。
宝物殿前には、文化14年(1817)の芭蕉句碑が建っている。
光了寺の直ぐ先左手に真宗大谷派の道知山円光寺がある。
円光寺の創建年代は不詳であり、境内には是といった石造物が見当たらない。

本願寺 顕正寺 日光街道踏切 中田の松原
円光寺を過ぎると右手に浄土宗の本願寺がある。
本願寺は、天平11年(739)行基菩薩が上伊坂の庄峯崎の地に自作の地蔵菩薩一体を祭って一堂を建立し、その後、約500年を経て時宗一向派の祖一向俊聖上人が弟子数名を伴って諸国遊行の折、この地を訪れ古い堂宇を再興して浄土時宗本願寺とした。昭和17年に浄土宗に改宗した。境内には、地蔵菩薩2体、板碑5基が安置されている。
本願寺に続いて左手に真宗大谷派の幡谷山破邪院顕正寺がある。
顕正寺は、常陸国茨城郡大薫の森畠谷の城主の嫡子畠谷次郎信勝(後に幡谷と改姓)による開基であり、第16代幡谷善了のとき古河市中田の阿弥陀堂に移し、顕正寺とした。
境内には、小さな地蔵菩薩、石燈籠などがあるのみで古い石造物などはない。
顕正寺を出て直線の道を進むと、街道が左に折れるところで東北本線の日光街道踏切を渡って行く。 あ日光街道踏切の先で古河市茶屋新田に入ると直線道路に松並木が続いている。
この通りは、江戸時代は 「中田の松原」 と呼ばれ、これから北へ古河の原町入口までの約一里余の間の呼び名であった。
幅五間(約9m)の道の両側は一段と高くされ、そこに松並木を植えたのは、寛永7年(1630)古河城主永井尚政のときであったという。

香取神社 道標 街道の名残 十九夜塔
松並木の街道を進むと右手に大きな赤い鳥居の香取神社がある。
香取神社は、宝永元年(1704)の創建で、その後、何回かの修復を経て氏子の守護神として鎮座している。社殿は老朽化が進み平成元年12月に再建されたものである。
境内には、新築記念碑、奉納檜7本と刻まれた自然石のほか、三峯神社の境内社などがある
香取神社の前の茶屋町会議所の脇に道標が建っている。
道標の文字は消えかけているが、「奥州日光道中茶屋新田」、「日本橋十七里・日光二十里」、「茶屋松原」 と記されている。
松の木の奥には、茶屋新田の松並木の解説がある。
松並木の先は歩道も土道が残り、県道228号線沿いには雑木林もあって街道の面影が残っている。 雑木林の先で国道354号線を越えて進むと、右手の送電線鉄塔の脇にある覆屋の中に十九夜塔が建っている。
傍らには小さな地蔵菩薩が安置されている。
この向かいに古河県立第二高等学校があり、校庭隅に古河一里塚跡があるが、木々に隠れて良く見えなかった。ここは江戸日本橋から数えて16里目の一里塚である。

石仏 羽黒神社 浄善寺 古河宿江戸口
街道を進んで信号交差点の次の左手の路地を30メートル程入った右手の民家の前に三体の石仏がある。
左の2体は地蔵菩薩で右は延宝5年(1677)の釈迦如来であるが、何とも不自然なところに建っている。
石仏の先を更に60m程進むと右手に羽黒神社がある。
羽黒神社の創建年代等は不詳であるが、境内には文化9年の常夜燈、文化6年の狛犬、宝永4年の庚申塔のほか、三峯神社・不動稲荷社・榛名神社などの境内社がある。
街道に戻ると程なく左手に真宗大谷派の高詠山常善寺がある。
浄善寺の創建年代は不詳であるが、境内には手水鉢に相当する井戸、古河市名木古木指定の推定樹齢330年のイチョウの大木がある
浄善寺の先の逆Y字路の右手に松並木をイメージする2本の松と古河宿と記された行灯のモニュメントが建っている。
古河宿は江戸日本橋から数えて9番目の宿場であり、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。天保14年の 「日光道中宿村大概帳」 によれば、本陣・脇本陣各一軒、旅籠31軒、宿内家屋1,105軒、人口3,865人と記録されている。

神明神社 案内行灯 稲荷神社 長谷寺寺標
逆Y字路の左手の路地を入って行くと右手に神明神社がある。
神明神社の創建年代は不詳であるが、古河公方足利成氏が社殿を造営したのが始まりと云われ、明治25年(1892)村社になった。
明治34年(1901)社殿は火災により焼失したが、その後再建され、現在、台町の 「自治会館」の看板が下がっている。
古河宿に入ると街道の両側には、近くの旧跡を示す行灯が15~6か所に建てられており、側面には歴史・人物・旧跡などの解説が記されている。 古河宿に入って直ぐ左手に稲荷神社がある。境内にある 「由緒幷遷宮記念碑」 によると、稲荷神社は宝暦2年(1752)本多美濃守忠敞古河城主のとき、山城国伏見より勧請したもので、祭神は保食神である。当初、現在地より南方約一町の長谷道の東側にあったが、明治12年(1879)現地に移し正一位稲荷大明神と称した。参道脇には、如意輪観音2基、庚申塔などがある。 稲荷神社の直ぐ先左手に 「日本三長谷観世音参道」 と刻まれた長谷寺の寺標が建っている。

子ノ神社 長谷寺 古河城御茶屋口門跡 古河播使者取次所址
長谷寺寺標の路地を150m程進むと、左手に子ノ神社がある。
子ノ神社の創建年代等は不詳であるが、御神体は秩父の三峰神社から勧請しており、長谷町の鎮守になっている。
近くを歩いていた男性の話では、伊勢参拝の折には必ず旅の安全を祈願したもので、このため本殿側面に草鞋が奉納されて吊り下げられているのだという。
子ノ神社から更に100m程先に進むと右手に真言宗豊山派の明観山観音院長谷寺がある。
長谷寺は、日本三大観音の一つで室町幕府を開いた足利尊氏公の血脉をひく足利成氏公により、明応2年(1493)に古河城の鬼門除けとして建立された。
本堂には、鎌倉にある長谷寺から勧請した十一面観世音菩薩立像が安置されている。
街道に戻って進むと左手の陽明堂文房具店の前に古河城御茶屋口門址碑がある。
古河藩主土井利勝が第三代将軍徳川家光の参詣の際、茶屋を置いたことに始まると云われ、日光社参の際、徳川将軍家はここから古河城に入城した。
碑の傍らには 「御茶屋口と御成道」 解説が建っている
古河城御茶屋口門跡の先左手二本目の路地を入ると弁当製造店の 「肴町米銀」 の前に 「古河播使者取次所址」 碑が建っている。
向かいの米銀の蔵には 「肴町の由来」 解説があり、通りには旧古河城文庫蔵を利用した、古河のお休み処 「坂長」 の重厚な建物が建っている。

蛭子神社 福法寺 大聖院 秋葉神社
古河のお休み処 「板長」 の袖蔵の横の十字路角に恵比寿神社がある。
恵比寿神社は、文化11年(1814)に創建され、現在地より南東方面にあったものを明治45年(1912)に現在地に移し、町内鎮守となった。
祭神は蛭子命(ひるこのみこと)で商売繁盛の神として信仰されている。境内には古河七福神の恵比寿神が建っている。
蛭子神社の前から西に50m程進んだところに真宗大谷派の亀嶋山福法寺がある。
福法寺は、親鸞上人の弟子正順坊が武蔵国内に創建したのが始まりで、その後下総国佐倉へ移され、さらに寛永8年(1631)に現在地に移された。
山門は、旧古河城二の丸御殿の入口にあった乾門(いぬいもん)を移築したものである。
街道に戻って右手の潮不動産の角を右に曲がって県道250線を150~60m程進むと左手に曹洞宗の玉龍山大聖院永昌寺がある。
大聖院は、大永3年(1523)第二代古河公方だった足利政氏が大朝宗賀和尚を迎えて、永昌寺を開いたことが始まりと云われている。
山門手前には、古河七福神の弁財天を祀った山王宮、不動堂があり、山門を入った境内には大日如来種子板碑がある。
大聖院入口から20m程先に秋葉神社がある。
秋葉神社は、境内に建つ 「由緒並遷宮記念碑」 によると、弘化2年(1845)武州北足立郡指扇の秋葉神社より勧請し、駿州三尺坊大權現を合殿として尊崇してきたという。
その後、明治年間に現地に社殿を移し、明治23年(1890)町内守護神として祀ったという。
境内には、古河七福神の毘沙門天があり、神社裏手に稲荷神社がある

高札場跡 本陣跡 八幡神社 浄圓寺
街道に戻ると本町二丁目交差点の右角に高札場跡があり、古河城下高札場址碑が建っている。 高札場の斜向かいに本陣跡があり、古河城下本陣跡碑が建っている。 本陣跡の向かいの古河駅へ向かう道を入ると左手一本目の路地を入った左手に八幡神社がある。
八幡神社は、康正元年(1455)初代古河公方足利成氏が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し、後の古河城諏訪曲輪(現歴史博物館)に創建したのが始まりで、その後、土井利勝が諏訪曲輪を出城とした際に現在地へ移築させた。
境内には、十九夜塔、名水八幡水、古河七福神の布袋尊像がある。
八幡神社の斜向かいに真宗大谷派の浄圓寺がある。
浄圓寺の創建年代等は不詳であるが、境内には昭和50年に再建された太子堂がある。かつて建立されていた太子堂は文化年間に風災により滅したと云われ、聖徳太子像は永い間本堂に安置されていた。
その後、昭和5年に再建されたが、破損が著しくなったことから、昭和50年に再建されたものである。

西光寺 宝輪寺 竹駒稲荷神社 道標
浄圓寺に隣接して浄土宗の稱名山西光寺がある。
西光寺の創建代等は不詳であるが、寛文8年(1668)に西光寺23世空阿上人が願主となって再建したと云われている。
山門手前には飛梅天満宮があり、本堂前には古河大仏と言われる阿弥陀如来座像が安置されている。
西光寺の通りの突当りに浄土宗の虎渓山宝輪寺がある。
宝輪寺は、良喜上人栄山和尚が鎌倉時代後期の永仁元年(1293)に開山した。
境内には阿弥陀如来坐像、南無阿弥陀仏名号碑などがある。また、市内で最も大きな永仁元年(1293)銘の板碑(市指定文化財)があったが、見逃してしまった。
宝輪寺の西隣に竹駒稲荷神社がある。
祭神は宇賀之魂命であるが、当所は隣接している宝輪寺の守護神であったと伝えられる。
一の鳥居鳥居の奥に明治38年(1905)の狛狐一対が建っている。
街道に戻ると十字路右角に常夜燈を兼ねた文久元年(1861)の道標が建っている。
この十字路は街道の枡形に当たるところで、道標の正面に 「左日光街道」、右側面に 「東筑波山」、左側面に 「江戸道」 と刻まれ、左が日光街道、右が筑波道(江戸方向)と分岐する場所に建てられたものである。

尊勝院 神宮寺 よこまち柳通り 提灯竿もみ祭り発祥の地碑
十字路を左折しないで先に40m程進むと右手に真言宗豊山派の明王山尊勝院安楽寺がある。
尊勝院は、嘉元年間(1303-06)の創建と云われ、足利尊氏の父貞氏が不動明王を篤く信仰し、その甲斐があって尊氏が生まれたので、不動明王を安置する不動堂を建てたことに始まるという。もとは鎌倉にあったが、初代古河公方足利成氏によって古河に移転された
街道に戻って十字路を左折すると右手に真言宗豊山派の真龍山心城院神宮寺がある。
神宮寺は、文安3年(1446)良宥上人の開基で、もと鎌倉にあったが、関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したため、幕府の追悼を受け、康正元年(1455)古河城に移った際に移設されたものである。本堂には、本尊の不動明王とは別に十一面観音菩薩が祀られており、境内には観音堂、文政3年(1820)の供養塔などが建っている。
神宮寺の先の十字路(枡形)を右折すると 「よこまち柳通り」 で、標柱と行燈のモニュメントが建っている。 よこまち柳通り標柱の斜向かいに 「古河提灯竿もみ祭り発祥の地」 碑が建っている。
提灯竿もみまつりの起源は、江戸時代の古河藩領であった栃木県野木町の野木神社に伝えられる神事 「七郷めぐり」 に付随した行事に由来しているという。その後、明治初期の廃藩置県で栃木県と茨城県とに分離されたため、古河市の提灯竿もみまつりとして発展してきた。
脇には、若杉鳥子文学碑が建っており、「帰郷」 の冒頭の部分の一節が刻まれている。

武蔵屋 瘡守(かさもり)稲荷神社 古河公方氏姫「桃香」 旧家
古河提灯竿もみ祭り発祥の地碑の向かいにウナギの武蔵屋が建っている。
武蔵屋は、明治44年(1911)の創業であるが、建物は明治中期に建てられたもので国登録有形文化財に指定されている。
武蔵屋から20~30m程先の左手路地を入ると右手に瘡守稲荷神社がある。 横町柳通りには個人商店が建ち並び、街灯に 『古河公方氏姫 「桃香」 のまちづくり日光街道古河宿』 と記された旗が付けられている。
桃香は最後の古河公方足利義氏の娘足利氏姫がモデルの古河市文化協会マスコットキャラクターである。
街道を進むと右手に街道によく似合う趣ある家が3軒並んでいる。
手前から小橋荒物店、創業160年を経た小澤糀店、そして山室屋野村商事の重厚な蔵造り家屋が建っている。

徳星寺 正麟寺 本成寺 古河宿北口
旧家の前のファミリーマート脇を西に40m程入ると真言宗豊山派の龍見山舎那院徳星寺がある。
徳星寺は、源頼政の家臣猪早太の曾孫である徳星丸が願主となって、古河城にある龍崎に建立された。その後、古河城に移ってきた足利成氏ら歴代古河公方の祈願所となり、更に幾多の変遷を経て現在地に移設された。
入口には万治4年(1661)の千手観音堂、本堂前には八角形の大師堂がある。
街道に戻って50~60m程進んだ左手の路地を入ると突当りに曹洞宗の麒翁山長時院正麟寺がある。
正麟寺は、古河城主小笠原家により開基され、小笠原秀政が古河城主だった天正18年(1590)から慶長6年(1601)の創建と云われている。本尊は釈迦如来像で、古河藩家老で、蘭学者でもあった鷹見泉石の墓所がある
正麟寺の北側の道路を隔てて日蓮宗の長久山妙光院本成寺がある。
本成寺は、正和3年(1314)日印上人が鎌倉に開基したのち、天文年間(1532-55)に下総国猿島郡伏木村に移転し、さらに慶長7年(1602)、古河城下北端の現在地に移転したと云われる。街道から石仏・題目碑などが並ぶ参道が延びて、その先に赤い山門があり、境内には瘡守稲荷神社・鬼子母神堂などがある
街道に戻ると県道261号線に合流する逆Y字路中央に古河宿と記された行灯のモニュメントが建っている。
ここが古河宿の北口である。

塩滑地蔵菩薩 野木神社 雷電神社 野木宿入口
暫く街道を進むと右手のコスモ石油の手前に塩滑地蔵菩薩の標柱が建っており、その奥に地蔵堂がある。
この地蔵菩薩は、身体の具合が悪い所に塩を塗ればご利益があるという。かつては、御堂に安置されている地蔵尊に直接塩を塗りつけていたらしく、著しく磨耗して痩せ細っている。
塩滑地蔵菩薩の先で茨城県から栃木県に入ると野木交差点の手前左手に野木神社の一の鳥居が建っている。
ここから500m程の参道を進むと野木神社がある。野木神社は、仁徳天皇の時代(313-99)の建立で、平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂が延暦21年(802)に参詣し勝どきを上げたと云われている。江戸時代には、古河藩主の崇敬も厚く、現在の社殿は文政2年(1819)に土井利厚によって再建されたものである。
野木神社参道の西側に雷電神社がある。
雷電神社は、永禄4年(1561)の創建と云われ、境内には嘉永元年(1848)の常夜燈、元治元年(1864)の手水鉢のほか、庚申塔・廻國供養塔などが建っている。
街道に戻って野木交差点で国道4号線に合流すると 「野木宿周辺の松並木解説」 があり、その先の 「東京から64km」 ポストを越えた左手の路地口に 「野木宿入口」 標柱が建っている。
この場所に野木宿の木戸が設置されていたと記されており、標柱の向かいには馬頭観音と文字の判読できない石柱が建っている。

野木宿解説 満願寺 野木一里塚跡 浄明寺
野木宿入口から程なく左手の民家の塀脇に日光道中野木宿の解説がある。
野木村の成立は、野木神社の周りに住居したのが始まりで、その後、文禄年中(1592-95)に街道筋へ出て、馬継が開始され、新野木村が成立した。天保14年(1843)の宿の規模は、本陣1軒、脇本陣1軒、問屋場4か所、旅籠25軒、人口527人であった。
野木宿解説を過ぎると左手に真言宗豊山派の萬徳山満願寺がある。
満願寺の創建年代は元和2年(1616)と云われ、山門脇に元治元年(1864)の十九夜塔があり、境内には御影堂、観音堂が建っている。
満願寺の先の信号十字路左角の民家の生垣の前に野木の一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて17里目の一里塚である。
野木一里塚の直ぐ先左手に浄土宗の清光山浄明寺がある。
浄明寺の創建年代等は不詳であるが、山門前に嘉永5年(1852)の十九夜塔・宝暦10年(1760)の庚申塔などがあり、境内には江戸後期から明治初期にかけて活躍した川島弥九朗の句碑がある。

道標 観音堂 馬頭観音 長屋門の旧家
浄明寺から300m程先の左路地角に風化の進んだ道標が建っている。
道標には、「是より大平山道」 と刻まれており、大平山神社への参詣道を示している。道標の傍らには 「野木宿道標」 と記された解説が建っている。
道標の先で街道が緩やかに右カーブする左手に観音堂がある。
観音堂の創建年代等は不詳であるが、堂内内には3基の厨子があり、境内には、文化12年(1815)の普門品供養塔・宝篋印塔・馬頭観音・嘉永3年(1850)の十九夜塔などの石造物が建っている。
街道を進むと66.2kmポストを越えた、左手の売地の看板の建っている空き地に大正8年(1919)の馬頭観音が建っている。 66.4㎞ポストを過ぎると横断歩道橋の手前左手に長屋門の旧家がある。

猿田彦大神 小社 愛宕神社 観音堂
野木駅入口に当たる友沼交差点を過ぎて左手2本目の路地角に猿田彦大神が建っている。
この角を入ると左手の段上に従軍記念碑・沿革碑・忠魂碑・献木記念碑・芳名碑・徴發馬匹慰霊碑などたくさんの戦役関係の石碑が建っている。
街道を進むと67.7㎞ポストの建つ生垣の中に稲荷社の小社と馬頭尊と刻まれた石碑が建っている。 小社の真向かいの道を入ると左手に愛宕神社がある。
愛宕神社の創建年代等は不詳であるが、補修記念碑によると、数百年の昔、火伏の神を祀り一円の尊崇を得て今日に至るとある。
愛宕神社の真裏(北側)に当たるところに観音堂がある。
観音堂の創建年代等は不詳であるが、境内には僧侶の墓など墓石が10基ほどあり、街道に近い所に明治11年(1878)の十九夜塔・嘉永元年(1848)の十九夜塔・文政2年(1819)の廿三夜塔が建っている。

法音寺 友沼八幡神社 馬頭観世音 稲荷神・塞神
観音堂を過ぎると十字路交差点の左手に真言宗豊山派の地蔵山法音寺がある。
法音寺の創建年代等は不詳であるが、街道に面した仁王門には、金剛力士像・東西南北を守護する四天王が立っており、境内には安永9年(1780)の芭蕉句碑、大師堂、十九夜塔・庚申塔などがある。
法音寺の斜向かいの十字路交差点右角に友沼八幡神社がある。
友沼八幡神社の創建年代は不詳であるが、改修工事記念碑によると天喜年間(1053-58)陸奥守源頼義が鎮守府将軍に任命され、その子八幡太郎義家を伴い阿部頼時、貞任父子討伐のとき、八幡神社を勧請したと云われている。この神社は徳川将軍が日光社参の際に御休所となったところである。
友沼八幡神社の先で小山市に入ると、右手の㈲荒井建築の向かいの路地角に馬頭観世音碑が建っている。
右側面に刻まれた年代は風化で判読できないが、正面には 「天下泰平 馬頭観世音」 と刻まれている。
街道を進むと69kmポストに立つケヤキの根元に二つの石祠があり、屋根の部分に 「稲荷神」・「塞神」 と刻まれている。

若宮八幡宮 十九夜塔 佛光寺 乙女八幡宮
先に進むと左手に若宮八幡宮がある。
若宮八幡宮の創建年代は不詳であるが、境内には宝永6年(1709)の大日如来坐像・地蔵菩薩・十九夜塔などのほか、稲荷社・三峯社の境内社がある。
若宮八幡宮から400mほど進んだ中妻公民館の前に、覆屋に安置された明治22年(1889)の如意輪観音が刻まれた十九夜塔が建っている。 70㎞ポストを越えて、右手にファミリーマートを見て進むと右手に真言宗豊山派の繪唐山佛光寺がある。
佛光寺の創建年代等は不詳であるが、ニ代将軍徳川秀忠から十石の寺領を賜ったと云われ、境内には観音堂、地蔵菩薩、十九夜塔などがある。
佛光寺の向かいに乙女八幡宮の社標が建っており、参道を150~60m程進むと社殿がある。
乙女八幡宮は、鎌倉時代に創祀されたと伝えられており、参道口に建つ一の鳥居(写真)は、元禄16年(1703)に別当寺光明寺が願主、下館の高嶋忠左衛門・乙女川岸の船問屋青木主水尉が施主となって建立したと刻まれている。境内には、明治の神仏分離によって廃された跡に土俵が設けられている。

間々田駅
本日は乙女八幡宮を最後にして、最寄り駅の間々田駅から帰ることとした。
駅前に乙女河岸の記載がある。慶長5年(1600)7月25日、会津の上杉から上方の石田三成討伐へと一転させた天下分け目の軍議 「小山評定」 が行われた。乙女河岸は、この会津討伐に際して、軍勢や武器・兵糧の陸揚げ地になっており、また軍議後の8月4日、一転して上方へ向かうため、諸将を従えた家康が船で江戸へ向かった地でもあった。

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