茶屋新田の松並木の由来について

旧日光道中の茶屋新田から原町出口の間と、横町出口から野木境の間に松並木があった。
夏は旅路に緑の陰を、冬は風を遮り旅に風情を添えた。安政2年(1855)8月、幕末の志士清河八郎は旅中記に次のことを記している。

 「ここから古河までは一里半の道のりで仙台道中最もきれいな松並木である。(中略)その並木の
 松の間から古河の天守閣が眺められ、また富士山も時には雲の上に姿を現し景色が大そうよい」

また、天保のころに書かれた「日光道中略記」には、この並木は永井尚政氏が古河城主のとき植えたもので、手入れ、植え足し、土手を築かせ並木の敷地として九尺(約2.7m)以上を確保させたとある。そして野火の防止にも細心の注意が払われ、松の根元には初茸が生え、クツワムシ、ウマオイの生棲地として人々に親しまれていたとも書かれている。大正時代になっても、松並木の美しさは 「古河郷友会雑誌」第33号に「帯の様に長く長く一里余りを連なる松原の緑は、是等浮世の波にもまれた人達に慰安を授くる様に、絶えず涼しき風をみなぎらせる」と書かれている。
昭和13年(1938)秋、道路拡張のため樹齢300年の松の木が次々に伐採され、また戦時中その根元は掘り下げられて、松根油の製造に使われたので、現在は松並木の面影はまったくない。
~以下略~

在りし日の松並木