江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成させたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を15日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
本陣・問屋や旅籠・茶屋などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530mほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
天保14年(1843)の調査では、栗橋宿404軒に対し、中田宿69軒となっている。ただし、118軒とする記録もある。
中田宿解説