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日光街道   (杉戸~栗橋)


平成28年10月6日(木) ☀|☁  杉戸~栗橋  16.1㎞
今年の9月は晴天の日が少なく、なかなか街道歩きが出来なかったが、今月に入ってようやく晴れる日があったので、急遽、7月以来の日光街道の続きを歩くこととした。
今日は31℃との予報であったが、さすがに真夏と違って風は爽やかであった。

明治天皇御小休所址 漢方医虎屋跡 杉戸宿本陣跡 愛宕神社
東武伊勢崎線の東武動物公園駅から大落古利根川を渡ると、本陣跡地前交差点の右手に明治天皇御小休所址碑が建っている。ここは杉戸宿で人馬継立・助郷差配などを行う問屋場が置かれていた。明治天皇は奥羽御巡幸の途中立ち寄り、ここで休憩された。碑の題字は西郷従徳によるものである。
本陣跡地前交差点の直ぐ先左手の明治安田生命杉戸宮営業所の隣に漢方医虎屋跡がある。
虎屋善蔵(内山周文)は、杉戸宿の漢方医の一人であった。その後継者も昭和期まで診療医として地域医療を担っていた。跡地には大きな松が枝を張っている。屋号 「虎屋」 はそのまま薬局に名を伝えている。
漢方医虎屋跡の先右手に杉戸宿本陣跡の長瀬家がある。
本陣長瀬家は、建坪約166坪半であったと 「宿村大概帳」 に記されている。ここには往時を偲ばせる門構えと松の木がある。
本陣跡の先の愛宕神社前信号の手前左手の路地を入ると突当りに愛宕神社がある。
愛宕神社は、香取神社、神明神社と共に杉戸宿の鎮守として祀られている。
境内には、推定樹齢300年の大イチョウ、石橋供養塔、光明真言供養塔などがあり、本殿裏には大六天を祀った塚がある。

渡辺金物店跡 富士浅間神社 稲荷神社 道標
街道に戻ると直ぐ右手に渡辺金物店跡がある。渡辺金物店は、杉戸の歴史を継ぎながら、今も今も味わいある店構えを残している。
街道が右に曲がる手前の左手路地を入り、大落古利根川沿いに進むと富士浅間神社の富士塚がある。
富士塚の石碑の中には、自然石に刻まれた芭蕉句碑があり、塚の周りには宇賀弁財天が安置された厳島神社、享保年間(1716-35)に改修された記録が残る金刀比羅宮がある。
富士浅間神社の北側に隣接して稲荷神社がある。
境内には明治13年(1880)の常夜燈、疱瘡神などが安置された境内社がある。
街道に戻ると左手路地角に道標が建っている。
道標には、「久喜方面 幸手方面」 と刻まれている。

角穀跡 宝性院 旧家渡辺邸 川除地蔵尊
街道が右に曲がる枡形に角穀跡の小島定右衛門邸が建っている。
創業は二代目定右衛門により、屋号 「角穀」は枡形の通りの 「角」 にある 「米穀問屋」 を意味している。
米の輸送をする際は、近くを流れる大落古利根川を利用していたという。
枡形の直ぐ先左手に真言宗智山派の杉戸山宝生院不動寺がある。
宝生院は、永禄3年(1560)幸手城主一色義直が、安産と子供の成長を願って安産不動明王を祀ったことに始まるという。その後、元和2年(1616)に杉戸宿本陣の庇護を受けて、本尊大日如来を祀った伽藍が整備された。
境内には、三体の不動明王が祀られた不動堂、馬頭観音、庚申塔などがある。
宝性院を過ぎると街道右手に旧家渡辺勘左衛門邸が建っている。
享保7年(1722)に杉戸宿に移り住んで以来、多数の農地を集積し、小作人を多く抱え、江戸中期以降は質屋業を営み、杉戸宿・近郊住民へ金銭等の貸し付けを行ってきたという。
邸内の奥には重厚な造りの蔵が見えており、街道に面した敷地はかなり広い。
旧家渡辺邸の先右手に杉戸宿碑が建っている。

交通安全地蔵尊 小社 厳島神社 茨島一里塚跡
国道4号線に合流して間もなく、道路を横切る用水路を越えた左手に交通安全の地蔵菩薩が建っている。 ボーリング場跡を過ぎて進むと左手の歩道下に鳥居のある小社がある。
鳥居脇には、小さな馬頭観世音碑が建っている。
小社を過ぎると東京から44km標柱の左手に赤い社の厳島神社がある。
創建年代等は不詳であるが、両部鳥居の隣には釈迦堂があり、文政3年(1820)の庚申塔などが建っている。
大島交差点を過ぎると左手の山田うどん高野台店の前に茨島一里塚跡がある。
ここには一里塚の痕跡はないが、解説板だけが建っている。茨島一里塚は、杉戸宿と幸手宿との中間に位置し、塚の上には榎が植えられてあった。次の一里塚は、それぞれ清地村三本木(杉戸町)と内国府間村(幸手市)にあり、いずれも榎が植えられていた。これらの一里塚も明治時代なかば以降に取り去られた。

旧道分岐 庚申塔・地蔵菩薩 幸手市南公民館 幸手追分
吉野家の手前で幸手市に入り、杉戸高野台駅入口を過ぎると上高野小交差点で左に旧道が分岐し、国道4号線と離れていく。 旧道に入って間もなく十字路の左手の東武日光線の手前に覆屋に安置された元禄10年(1697)の一面六臂の青面金剛の庚申塔と安永6年(1777)の地蔵菩薩がある。 十字路の直ぐ先で東武日光線の踏切を渡ると右手に御堂のように見える幸手市南公民館が建っている。
公民館の前には、上高野村道路元標が保存されている。元は御成街道沿いの石井酒造前の橋の袂に建てられていたもので、平成2年の歩道工事の際に、旧日光街道沿いであるこの場所に移転されたという。
幸手市南公民館の先で首都圏中央連絡自動車道の高架下をくぐって進むと県道65号線に突き当たる。
この交差点が幸手追分で、左から日光御成道が合流してくる。御成道は、徳川家光の時代に整備された将軍専用道で、本郷追分から川口宿、鳩ケ谷宿、大門宿、岩槻宿を経て、ここ幸手追分で日光街道に合流している。

不動堂 太子堂 神宮寺 稲荷社
幸手追分を右に曲がると直ぐ右手に不動堂がある。
一帯は墓地となっており、入口に僧侶の墓が覆屋に安置され、塀際には馬頭観音や地蔵菩薩・如意輪観音などが並んでいる。
不動堂のある墓地の隣に大師堂がある。
御堂内の厨子に聖徳太子像が納められているが、厨子は閉じられており拝顔できなかった。
太子堂の先左手に浄土宗の鷹尾山誓願院神宮寺がある。
源頼朝が敵対する藤原泰衡を討伐するため、奥州へ向かう折、この地で鷹狩りをしたところ、鷹が逃げて薬師堂の大樹にとまったまま動かなくなり、薬師如来に祈ったところ戻っと云われる。この故事から鷹尾山誓願院の名が付いたと云われている。
街道を進んで東武日光線を越えると、左手の栗田時計店の隣にある空き地の奥に赤い小社の稲荷社がある。

神明神社 上庄かふぇ ハッピーハンド 幸手宿並み
倉松川に架かる志手橋を渡ると右手に神明神社がある。
神明神社は、宝暦5年(1755)に伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社である。境内には、成田・菅谷両不動尊があり、菅谷不動尊は「田螺(たにし)不動尊」とも言われている。
この辺りは幸手宿の入口で、江戸時代にはここに高札場があった。
神明神社の直ぐ先右手に上庄かふぇがある。
この建物は、江戸時代末期に醤油醸造業を営んだ商家旧家岸本家住宅主屋を利用したもので、平成21年(2009)に国の登録有形文化財に指定されている。
写真中央に建つ道祖神を刻んだ明治4年(1871)の石柱に登録有形文化財のプレートが埋め込まれている。
幸手駅入口交差点の右に延びる東さくら通りの歩道上に、その年に最も幸せを感じさせてくれた男女一人づつの手形が設置されている。
ハッピーハンド事業は、幸手市が 「幸せの手」と表記するところからきており、昭和63年(1988)から始まっている。
幸手宿並み(県道65号線)は、往時の面影は全く残っておらず、商店街の中を直線の道が続いているだけである。
幸手は、奥州に通じる渡しがあった場所として古くから栄えており、江戸日本橋から数えて6番目の宿場であった。天保14年(1843)の 「日光道中宿村大概帳」 によると、人口3,937人、家数962軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋27軒、問屋場1ヵ所であったという。

担景寺 常光寺 幸手宿本陣跡 満福寺
幸手駅入口交差点の先の最初の右手路地を入ると、真言宗本願寺派の法林山担景寺がある。
担景寺の創建年代は不詳であるが、元和元年(1615)に没したという
順覚により開基された云われている。
本尊の阿弥陀如来像は平安時代中期の名僧・源信(恵信僧都)の作と伝えられている
担景寺に隣接して天台宗法華円宗の雲光山瑠璃光院常光寺がある。
常光寺は、延宝8年(1680)顕海によって開山した云われている。本尊は大日如来であるが、薬師如来・観世音菩薩・地蔵菩薩・不動明王も祀られている。
境内には、十八羅漢像、地蔵菩薩、稲荷大明神などがある。
街道に戻って進むと中一丁目交差点の左角に幸手宿本陣跡の知久家跡がある。
知久家は、本陣・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家である。初代帯刀は、長野県伊那郡の豪族の出で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治3年(1870)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くした。
中一丁目交差点を左に入ると真言宗智山派の江柄山満福寺がある。
満福寺は、一色氏発願寺の祈願として戦国期に建立されたと云われ、その後、裏町天神や八幡香取社の別当を努めた時もあったる寺で、本尊は如意輪観世音菩薩である。
境内には、延命地蔵堂、観音堂、大恩堂などがある。

日光御廻り道 街道標識 浅間神社 聖福寺
街道に戻って進むと、右手にある中山家具店の向かい延びる路地の入口に 「ここより日光御廻り道」 の標柱がある。
日光御廻り道は、日光道中の幸手宿と栗橋宿の間が洪水の可能性が高かったため、徳川将軍が日光東照宮参拝の際、洪水に遭遇した場合の迂回路として整備された道である。
里程3里で、天保年間(1830-43)に整備されたと云われている。。
街道沿いには日光街道の標識が建っており、「ふるさとのみち 日光街道 県道岩槻幸手線」 と記されている。  直ぐ先の荒宿交差点を右に進むと左手に浅間神社がある。
浅間神社は、幸手宿の豪商長島屋が文久2年(1862)に創建したと伝えられ、明治9年(1876)に再建された。富士山信仰に基づいた木花開耶姫を祭神とする神社で土を高く盛って山に例えたものの上に建てられている。
境内には、大国神社・小御嶽石尊大権現・稲荷大明神・三峰神社の境内社、数基の庚申塔などが建っている
街道に戻ると荒宿交差点の直ぐ先左手に浄土宗の菩提山東皐院聖福寺がある。
聖福寺は、浄土宗知恩院の末寺として応永年間(1394~1428)に開山したと伝えられ、徳川将軍の日光社参の際と、東照宮例大祭に天皇の代理で参拝した例幣使の帰路の休憩所に用いられ、山門は唐破風四脚門で将軍と例幣使以外は通行できなかったと云われている。

幸手一里塚跡 正福寺 筋違橋 内国府間八幡神社
聖福寺を過ぎると直ぐ先で街道が右に曲がる角に幸手一里塚跡があるが、案内板が建っているのみで痕跡はない。
ここは江戸日本橋から数えて12里目の一里塚である。
幸手一里塚の向かいの幸手宿の直線突当りに真言宗智山派の香水山楊池院正福寺がある。
正福寺は、江戸時代学問の研究や子弟を養成する常法談林であり、当時、49ヵ寺の末寺を持っていた。境内には、義賑窮餓之碑がある。天明3年(1783)の浅間山噴火が原因の飢饉の際に、幸手町の有志が難民を救済したことを讃える顕彰碑である。生憎山門は閉ざされ、境内には入れなかった。
街道は、幸手一里塚跡の先のT字路交差点を左折して、直線の道をどんどん進んで行くと北側用水路に架かる筋違橋を渡って行く。 内国府間交差点で国道4号線に合流すると、直ぐ左手に八幡神社社標が建っており、この路地を進んで行くと右手に内国府間八幡神社がある。
内国府間八幡神社は、明応元年(1492)の創建で、騎乗の八幡大明神と香取大明神の座像を安置した合社で、幸手城主一色宮内大輔の家臣遠藤石見清吉が、山田氏と改姓、帰農し、開発したと云われている。境内には、同じ形態の文字庚申塔がたくさん安置されている。

神社 行幸堤之碑 行幸橋 道標
街道に戻って進むと幸手市北公民館入口の左角に鳥居を構えた神社がある。
鳥居には神額が付いているが、神社名は記されていない。
神社を過ぎると右手に中川沿いの権現堂堤があり、その北側の国道4号線に近づいたところに行幸堤之碑と明治天皇権現堂堤御野立所碑が建っている。
権現堂堤には、見頃を過ぎた曼珠沙華の花が咲き、葉の散った桜並木が続いている。
権現堂堤を過ぎると中川に架かる行幸橋橋で渡って行く。
橋の渡り詰め右手に交通事故者慰霊観音菩薩が建っている。
行幸橋の渡り詰めに国道4号線から左に入る旧道があり、集落の中の街道を進んで行くとY字路中央に道標が建っている。
この道標は、安永4年(1775)日光街道と筑波道が分かれるこの場所に建てられたものである。
道標には、「東川つま道 まいはやし道」、「右つくば道」、「左日光道」 と刻まれている。

吉羽屋酒店 雷電社湯殿社 墓地 八幡神社
道標の先を進んで行くと右手に何とも懐かしさを感じる吉羽屋酒店がある。 吉羽屋酒店の先のY字路中央に雷電社湯殿社がある。
雷電社湯殿社の創建代は不詳であるが、約300年前から鎮座しているという。社殿は平成13年の不審火により全焼したため、翌年に再建された。
境内には、如意輪観音、大日如来など神仏習合の名残の石造物がある
街道を先に進むと田圃の真ん中に墓地が見え、街道はその手前の十字路を右に折れていく。
十字路の先を進み、T字路を左に折れると左手に小右衛門下組の八幡神社がある。
八幡神社の創建年代は不詳であるが、栗橋町大字小右衛門上地区堤外にある川通神社の八幡神社を、小右衛門下組氏子共有の氏神として、小右衛門集落の東端旧権現堂川の堤外に勧請して建立したと云われている。
現在の社殿は、平成10年に元地より移転新築されたものである。

小右衛門一里塚 権現堂川歩道 川通神社 会津見送り稲荷
八幡神社の向かいの真言宗豊山派の真光寺の墓地の一角に小右衛門村の一里塚跡がある。
塚の上には、昭和初期に付近から移築されたという弁財天堂が建てられている
塚の高さは、西側から約2m、東側(道路側)は約0.6mで、塚の形態と当初の広さを残し、当時の姿を偲ぶことができる。ここは江戸日本橋から数えて13里目の一里塚である。
一里塚の先では、直進せずに権現堂川歩道ルートを選択して進むこととした。
工業団地入口交差点から小右衛門北交差点までの道であり、川沿いということもあって風が爽やかである。
小右衛門北交差点の下を抜けて国道4号線の南側に出て進むと直ぐ左手に旧道があり、旧道を進むと間もなく右手の段上に川通神社がある。
鳥居には、香取宮・八幡宮と刻まれ、川通神社社殿は玉垣に囲まれており全体の姿は良く見えない。
街道をどんどん進んで行くとY字路右手の民家の庭先に会津見送り稲荷がある。
江戸時代、会津藩の武士が藩主江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるため、この街道を栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため通行できず、街道が何処か分からず大変困っていると、突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれた。お陰で武士は無事江戸へ着き、大事な役目を果たすことができた。その後、この老人は狐の化身と分かり稲荷様として祀ったという

道標 焙烙地蔵堂 栗橋宿並み 顕正寺
会津見送稲荷神社の前のY字路に木柱の道標が建っている。
道標には、「←焙烙地蔵、北広島地蔵・会津見送稲荷→」 と記されている。
この先、国道125号線のガード下を潜って、県道60号線に合流するまでに同様の木柱の道標が5本建っている。
県道60号線に合流したところが栗橋宿入口で、間もなく右手に焙烙地蔵堂がある。
昔、現在の利根川に関所が設けられ、人の通行を厳しく取り締まっていた頃、関所を通らないで渡った者、または渡ろうと企て事前に発見された者は、関所破りの重罪人として火炙りの刑に処せられたという。処刑場も地蔵堂のあるこの場所であったと云われている。こうした多数の処刑者を憐れみ、土地の者が供養のために焙烙地蔵として祀ったものである。
街道には 「栗橋宿」 の幟がはためいている
栗橋宿は、江戸日本橋から数えて7番目の宿場であるが、当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述も有る。
天保14年(1843)の 「日光道中宿村大概帳」 によると、人口1,741人、家数404軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠25軒、問屋場1軒であったという。
焙烙地蔵堂の先右手に浄土真宗大谷派の幡谷山破邪院顕正寺がある。
顕正寺の開基は、常陸の国幡谷の城主幡谷次郎左衛門尉信勝である。信勝は出家して光念寺を建立し、十字の名号を本尊としていたが、兵火にかかり焼失した。その後、下総国古河領中田新田村藤の森に聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来の木像を安置した御堂があったので、ここに引き取り顕正寺とした。境内には、「くりはし八福神」 の毘沙門天、馬頭観音などがある。

浄信寺 深廣寺 福寿院 橋原屋
顕正寺の向かいに浄土宗の無量山浄信寺がある。
浄信寺の創建年代等は不詳であるが、境内には、「くりはし八福神」 の寿老人、覆屋に安置された十九夜塔、青面金剛の庚申塔などがあり、墓地には栗橋の開墾に従事した梅澤太郎右衛門の墓がある
また、大正元年(1912)から、子ども達の無事な成長を祈願し、呑龍上人法要祭が毎年4月8日に執り行われている。
浄信寺に裏手(西)に隣接して浄土宗の無涯山深廣寺がある。
深廣寺の創建年代等は不詳であるが、境内には、「南無阿弥陀仏」 と刻まれた21基の六角名号塔が並び、「くりはし八福神」 の恵比寿神、青面金剛の庚申塔などの石造物がある。
街道に戻って進み、栗橋駅入口交差点を駅方向に進むと左手に真言宗の天王山福寿院がある。
福寿院の創建年代等は不詳であるが、山門前に 「くりはし八福神」 の福禄寿、境内に西国秩父坂東四国供養塔などがあり、山門前の路地角に地蔵堂がある。
街道に戻ると左手に明治中期に燃料店を営んでいた 「橋原屋」 が建っている。
建物は、江戸時代末期の建築である。

八坂神社 栗橋関所跡 利根川橋 静御前の墓
街道の突当りに八坂神社がある。
八坂神社の創建年代は不詳であるが、関所が置かれていた栗橋宿の鎮守は、牛頭天王社と云われており、明治維新になって八坂神社と改称されている。縁起には、「慶長年中利根川洪水時に元栗橋の神興天皇様が流されて来、その周りを鯉、鮒、泥亀などがいっぱい取りまいてさながらお神興を護っているようであったのでこれを勧請す」 とある。境内には、八幡神社・皇太神宮などの境内社がある。
八坂神社を出て堤防に沿った道を利根川橋に向かって登って行くと、右手の斜面に栗橋関所跡がある。
江戸時代は、栗橋と対岸中田(茨城県古河市)とを結ぶ渡船場の名称をとり、「房川渡中田御関所」 と呼ばれていた。
ここには栗橋関所跡碑と解説が建っており、八坂神社脇に関所番士屋敷跡がある。
栗橋関所跡の先に利根川に架かる利根川橋がある。
本日はここで終了し、栗橋駅に出て帰ることとした。
栗橋駅に向かうと駅の近くに静御前の墓がある。静御前は、義経を追って奥州に向かう途中、義経の死を知り、文治5年(1189)9月15日に此の地で亡くなったと言われている。
当時、ここには高柳寺と呼ばれる寺があり、静御前は寺の境内に埋葬され、墓上には杉の木が植えられたという。
高柳寺はその後、中田(現在の茨城県古河市)に移転し、光了寺と名を改めている。

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