「御茶屋口」、旧日光街道に面するこの口の名前は、かつてこの地に存在したとされる 「御茶屋」 に由来している。それは日光社参(徳川将軍が神君徳川家康を祀る日光山へ参詣する行事のこと)に伴い、将軍の休憩所として設けられたとされるが、江戸初期のごくわずかな期間に存在したと推定されるこの建造物について、今のところ、記録として残る略図以外にその詳細は分からない。
ところで、徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて19回行われているが、古河城は道中における将軍の宿城となることが通例であった。将軍の古河入城に利用された 「御成」 の入口がこの御茶屋口である。
そして、「御茶屋口」 から続く将軍御成の道は、諏訪郭(現歴史博物館)を北側に迂回、その後、幅180mに及ぶ 「百聞堀」 を渡す 「御成道」 を経由して城内に至る。杉並木で飾られた 「御成道」 と城内との接点には、石垣で堅牢に守られていた 「御成門」 が将軍をお迎えした。
なお、将軍休憩の御殿というべき 「御茶屋」 破却後、その場所の一角には、「御茶屋口番所」 が置かれている。これは、古河城下を通行する格式の高い大名や幕府閣僚たちの挨拶に応対する役人の詰所であり、明治維新を迎えるまで存続した。

徳川将軍日光社参の休憩所として寛永年間道路の南側に御茶屋を設け将軍入城の爲め門を建つ 人呼びて御茶屋口御門といふ 正面に番所ありて明治初年に及ぶ 此碑は古河町西村修治 青木善兵衛両氏の篤志に依り之を建つ
昭和8年1月吉祥日

「御茶屋口と御成道」 解説

碑の裏面

史跡古河城御茶屋口門址碑