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日光街道   (間々田~石橋)


平成28年10月19日(水) ☁  間々田~石橋  23.0㎞
10月7日に引き続き、間々田から先を歩くこととした。天気予報では 「曇り時々晴れ」 とのことであったが、結果的には最後まで陽が出なかった。気温は18度位で半袖で丁度良い。宿場で言えば間々田宿から先は、小山宿、新田宿、小金井宿、石橋宿となる。

間々田駅 石祠 逢いの榎 琴平神社
日の出の時刻は過ぎているのであろうが、厚い雲に覆われてやや薄暗く感じる。
前回は気付かなかったが、駅前ロータリーの中央に 「蛇がまいたの像」 があり、植栽の中に 「間々田の蛇祭り」 と刻まれた解説碑が建っている。
街道に出ると直ぐ右手の小山市立車屋美術館の駐車場脇に生垣に囲まれた石祠が建っている。 小山市消防本部間々田分署の先の信号交差点を渡ると右手に逢いの榎碑が建っている。
ここは日光街道の中間地点で、榎の大木があり 「間の榎」 と呼ばれていたが、いつの頃からか 「逢いの榎」 と呼ばれて、縁結びの木として信仰されるようになったという。この大木は昭和40年(1965)の台風によって、倒れてしまい現在は2代目の榎が植えられている。
間の榎から程なく右手に琴平神社がある。
琴平神社の創建年代等は不詳であるが、神社の西の思川は乙女河岸に続く川で、間々田宿に荷上げするのにするのに適していたことから、河川交通の安全を願ったのではないかと云われている。
社殿には琴平神社と浅間神社が祀られており、境内には三峰神社の境内社がある。

龍昌寺 間々田宿問屋場跡 間々田宿本陣跡 間々田八幡宮
琴平神社を過ぎると直ぐ左手に曹洞宗の天恵山龍昌寺がある。
龍昌寺の創建年代等は不詳であるが、山門をくぐると左手に33年に一度の御開帳が行われる寝起不動尊の祀られた不動堂があり、本堂左手に徳川家光が亡くなった際、遺骨を日光へ運ぶ途中、龍昌寺で一泊したことを記した碑が建っている。
間々田交差点を過ぎた東京から72kmポストの建つ左手に間々田宿問屋場跡がある。
間々田宿は江戸日本橋から11番目の宿場であり、江戸と日光の丁度中間に位置していた。天保14年(1843)の記録によると、石高944石、家数175軒、人口947人、旅籠50軒、本陣・脇本陣各1軒と記されている。ここ間々田宿の上中町の上原家が、名主を職を兼ね、代々世襲で幕末まで問屋を勤めていた。
問屋場跡から30m程先の㈲栗原電機の手前に間々田宿本陣跡がある。
遺構は残っておらず、解説板だけが建っている。
江戸時代の初めから江戸時代を通して青木家が代々、この地で本陣を維持し、明治の世となって明治天皇が休憩の一時を過ごされた。
間々田本陣跡から程なく間々田四丁目交差点左手に間々田八幡宮の常夜燈が建っている。
常夜燈との間は狭いが、対面通行の車道であり、500m程先に間々田八幡宮がある。
間々田八幡宮は、天平年間(729-49)の創建と伝えられており、毎年5月5日に五穀豊穣や疫病退散を祈願して間々田の蛇祭りが行われている。境内には弁財天・八龍神社などの境内社があり、広大な鎮守の森となっている。

浄光院 行泉寺 庚申塔 浅間神社
街道に戻ると左手に真言宗豊山派の廣永山浄光院がある。
浄光院の創建年代等は不詳であるが、山門は街道からも目立つ鐘楼門で、境内には十一面観世音菩薩を祀る観音堂があり、御堂の脇には十九夜塔・庚申塔などの石造物が並んでいる。
浄光院の向かいに浄土真宗本願寺派の亀井山行泉寺がある。
行泉寺の創建年代等は不詳であるが、本堂は街道に背を向けており、右手の墓地から回り込んで正面に出と、墓地の中を通る参道がある。
行泉寺を過ぎた辺りが間々田宿の北口に当たり、間々田郵便局を過ぎて千駄塚に入ると左手の千駄塚公民館の前に庚申塔が2基入った覆屋がある。
庚申塔は、年代不明の青面金剛の庚申塔と天保15年(1844)の一面六臂の青面金剛の庚申塔である。
庚申塔の向かいの小路入口に浅間神社社標と史跡千駄塚の標柱が建っている。
小路を入って行くと突き当たりの林の中に浅間神社がある。浅間神社社殿は千駄塚古墳といわれる墳丘の上に建っている。
境内には、山神社・雷電社・八幡宮・大杉神社・愛宕神社などの境内社がある。

西堀酒造 大橋訥庵旧居跡 安房神社 長屋門
粟宮(南)交差点を渡ると左手に西堀酒造がある。
西堀家は38代続くという近江商人で滋賀県の東近江市に屋敷があり、京都御所の北側で紡績業を営んでいたが、幕末になって西堀家33代目となる西堀三左衛門氏が明治5年に酒造業に参入し、酒造業としては5代目になるという。銘柄は若盛、門外不出で、蔵は登録有形文化財に指定されていて、レンガ作りの煙突は明治時代に造られたという。
西堀酒造の直ぐ先左手空地に 「大橋」 と標札が建っているが、ここは大橋訥庵旧居跡である。訥庵は幕末の尊攘思想家で長沼流兵学者清水赤城の第4子として生まれたが、大橋知良の婿養子となる。私塾思誠塾を開くとともに、宇都宮藩江戸藩邸で当時老中職にあった藩主忠温をはじめ家老たちに儒学を講義している。また西洋学術を批判するとともに、公武合体にも反対したが、坂下門外の変の3日前に捕えられ、伝馬町の獄舎に投ぜられた。 先に進むと粟宮Y字路交差点手前に安房神社社標が建っており、街道近くに建つ鳥居から200m程進むと安房神社社殿がある。
安房神社の創建は崇神年代(紀元前97-30)に勧請されたのが始まりとされ、その後、仁徳年間(373-99)に再建されたと伝えられている。また平安時代末期に平将門と戦った藤原秀郷が戦勝祈願したと云われており、小山氏や古河公方の信仰が篤く、足利政氏、小山高朝らの古文書を所蔵している。
粟宮Y字路交差点で国道4号線と分れて右の県道265号線を直進していくと街道右手に長屋門の旧家がある。

歩道 天満宮 小野塚イツ子記念館 持宝寺
暫く進んで国道50号線の高架下をくぐると、その先は縁石などで仕切られた歩道は無くなり、白線で示された歩道となり車に注意して進むこととなる。 先に進むと小山市役所神鳥谷庁舎の看板の建つ交差点左手角に天満宮がある。
天満宮の創建年代等は不詳であるが、現在の天満宮には、天満宮・稲荷神社・雷電神社の三社が合祀されている。この天満宮は小さなお宮であるが、村社という格式で江戸時代47戸の氏子があったという。
境内には宝篋印塔、十九夜塔などの石造物が建っている。
天満宮から程なく右手にレンガ造りの煙突が目立つ小野塚イツ子記念館がある。
この記念館は、平成15年に逝去された故小野塚イツ子氏の遺志により小山市に寄贈された建築物である。小野塚家は江戸時代から続く商家で、「万久」 の商標でしょうゆを醸造しており、当時の土蔵及び醤油工場の建物の外観を残しながら改修し、平成16年に地域学習施設として開設されたものである。
直ぐ先の十字路信号交差点を左に進むと右手に新義真言宗の東醍醐山持宝寺がある。
持宝寺は、宝亀3年(772)に弓削道鏡が開基したと伝えられており、現在の山門は南向きだが江戸時代は日光街道側の東向きであったという。
享保13年(1728)八代将軍徳川吉宗が、日光社参の際、休息所とした寺である。
境内には、不動堂・戦時供出を免れた梵鐘などがあり、道路を隔てた墓地の角に観音堂がある。

須賀神社 現馨寺 常光寺 小山宿脇本陣跡
街道に戻ると直ぐ先左手に須賀神社社標が建っており、長い参道を進むと須賀神社がある。
須賀神社は、天慶3年(940)藤原秀郷公が京都の八坂神社より分霊を迎えて祀ったことに始まるという。
境内には、徳川家康公小山評定之碑、藤原秀郷公顕彰之碑、重量2トンを誇る大神輿、木曽檜造りの随身門、伝説の七ツ石などがある。
須賀神社の参道北側に時宗の秀郷山現馨寺がある。
現馨寺の創建年代等は不詳であるが、山門は冠木門であり、山号が秀郷山とあり、藤原秀郷ゆかりの寺かも知れない。
街道に戻ると次の信号交差点の右手突当りに浄土宗の常光寺がある。
常光寺の創建年代等は不詳であるが、境内には慶應4年(1868)の戊辰戦争の際の幕府軍の流れ弾が当たった阿弥陀如来座像、廿三夜堂、如意輪観音、筆塚などがある。
信号交差点を過ぎると直ぐ左手に小山宿脇本陣跡がある。
ここには明治天皇小山行在所碑・明治天皇御駐輦之碑が建っており、奥に脇本陣表門が残っている。
天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によれば、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒えあったという。

元須賀神社 光照寺 宝性院 興法寺
駅前上町交差点を過ぎると左手に元須賀神社の鳥居が建っており、細い参道を進むと街道の一本西側の路地脇に元須賀神社がある。
江戸時代には牛頭天王社、元祇園社、本祗園社とも呼ばれていた。
元須賀神社を出た先の十字路を右に進んむと右手の路地に時宗の衆徳山光照寺がある。
光照寺は、永仁5年(1297)の開基と云われ、境内には慶応4年(1868)小山の戦いで戦死した笠間藩士海老原清右衛門の墓がある。 
県道264号線との交差点を過ぎた次の信号を左折すると真言宗豊山派の宝性院がある。
宝性院の創建は不詳であり、山門は立派なものが建っているが、堂宇は無く境内は民家の庭といった感じである。
街道に戻ると直ぐ左手に天台宗の徳王山妙楽院興法寺があり、街道から延びる参道は桜の古木が並んでいる。
興法寺は、嘉祥2年(849)慈覚大師円仁によって創建され、小山城主本田正純と徳川家光から寺領を与えられた。小山氏代々の祈願所として城内にあったが、その後現在地に移転した。
本尊の阿弥陀三尊像は栃木県の指定文化財となっており、境内には十九夜塔・馬頭観音・庚申塔などの石造物がある。

愛宕神社 蛸屋総本店 天翁院 第一奥州街道踏切
興法寺参道の斜向かいの本郷町公民館脇に愛宕神社がある。
愛宕神社は、貞応2年(1223)城主小山左衛門尉朝政が本城鬼門守護の鎮守として山城国(京都)の愛宕の神を勧請して創建した。以来小山家代々の崇敬篤く、稲葉郡の鎮守と仰がれている。
境内には、大欅の切株・天明5年(1785)の狛犬、秋葉神社・浅間神社・雷電神社の境内社がある。
愛宕神社の直ぐ先左手に気抜き屋根の付いた蛸屋総本店がある。
もとは宮城県仙台の広瀬川に面した一角で 「赤壁楼」 という和菓子屋が始まりと伝えられ、仙台藩主伊達正宗公の命により、蛸の看板を掲げるようになり、後に戦争疎開等を経て此の地に移設したという。商品には、「たこ壺もなか」、「陣内評定餅」 などがある。
蛸屋総本店の前に一見寺標とは分からない 「祇園山天翁院」 と刻まれた石柱が建っており、この先を150m程進んだ国道4号線を渡ったところに曹洞宗の祇園山天翁院がある。
天翁院は、祇園城跡の一角にあり、本尊は釈迦如来で、鎌倉時代小山氏初代の小山政光が北山に祇園山万年寺として創建したのが始まりと伝えられている。木々の生い茂る参道には庚申塔・十九夜塔などの石造物がある。
街道に戻って約1km程進むとJR両毛線の第一奥州街道踏切がある。

日枝神社 追分道標 旧道口 喜沢の一里塚跡
第一奥州街道踏切から更に1㎞程進むと、左手に日枝神社社標が建っており、ここから200m先の国道4号線を越えたところに日枝神社がある。
参道脇には推定樹齢400年以上のケヤキが立っており、境内には、野田神社・愛宕神社・猿王神社などの境内社がある。
愛宕神社の主祭神は、大山咋命で農耕をつかさどり山王信仰に基づいて神仏習合期には 「山王権現」 とも称されていた。
日枝神社を出ると直ぐ先の喜沢分岐点交差点の角に石碑が3基建っている。
ここは壬生通りとの分岐点で、建っているのは天明5年(1785)の道標を兼ねた西国秩父坂東供養塔・明治27年(1894)の馬頭観世音碑・日清日露日支出征馬碑である。
日枝神社にあった道標を兼ねた男體山碑は、ここに建っていたものである。
追分道標の斜向かいに県道265号線と分岐する旧道がある。 直線の街道を進んで行くと左手の雑木林の中に明らかにこんもりとした喜沢の一里塚跡がある。
これは西塚で、当時と同様、塚には数本の雑木が植えてある。東塚の痕跡はないが、当時は杉が植えられていたという。
ここは江戸日本橋から数えて21里目の一里塚である。

東北新幹線 新田宿本陣跡 幕府代官陣屋跡 羽川薬師堂
喜沢の一里塚跡を過ぎると、しばらく東北新幹線高架下を進み、県道33号線(トンネル)の上を越えると、左手に分岐して国道4号線へ合流したところで新田宿に入って行く。 新田宿に入って程なくT字路信号交差点の左手に四脚門の青木家が建っている。
この辺りが新田宿の中心部であったと云われ、民家の塀などに屋号が掲げられている。
天保14年(1843)の記録 によれば、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒、人口244人であり、日光街道で最も小さな宿場であった。
新田宿本陣跡の先の左手路地角に幕府代官陣屋跡看板がある。
隣に奥州街道新田宿羽川の看板があり、奥に吉田神社跡碑が建っている。ここは天領を支配した幕府代官支配所の代官陣屋があった場所である。
幕府代官陣屋跡の角を左に入ると正面に羽川薬師堂がある。
羽川薬師堂は、小金井宿にある慈眼寺の権大僧都覧清師が、衆生を病苦から救うため薬師如来を祀る御堂を建立したものである。
御堂脇には雨引観世音碑・十九夜塔が覆屋に安置されている。

橿原神社 石塔群 下野市 消滅道出口
街道に戻ると直ぐ先右手に橿原神社がある。境内由緒によると、往古、この地の氏神様は 「星宮神社」 であったが、明治5年(1872)氏子等が集い、九州の宮崎神宮より御神霊を勧請し、「橿原神社」 と名を改め創建されたという。境内には、星宮神社・吉田神社・琴平神社の境内社と神輿殿がある。 街道を進んで左手の銅市金属工業㈱のところから左に折れると、旧道の入口に覆屋に安置された寛政12年(1800)の馬頭観音があり、覆屋の脇に大乗妙典六十六部供養塔・馬頭観音・庚申塔3基が建っている
この先は住宅地の中の道で街道の面影は無く、先に進むと県営羽川住宅の先で道は消滅している。やや手前で国道4号線に出て迂回して行く。
迂回して国道4号線に出ると東京から85kmポストの先で下野市に入る。 ドラッグセイムス小山小金井店の裏に回り込むと、県営羽川住宅の先で消滅した旧道が僅かに残っており、その先の道に合流している。
この先も住宅地であるが、所々に畑があり葱や里芋が植えられている。

小金井の一里塚跡 慈眼寺 金井神社 旧呉服屋
街道を進むと突当りの畑の奥に小金井の一里塚跡がある。
塚は両塚とも残っており、エノキとクヌギが立っている。ここは江戸日本橋から数えて22里目の一里塚である。
一里塚跡から国道4号線に合流して先に進むと左手に真言宗智山派の多宝山慈眼寺がある。
慈眼寺は、建久7年(1196)新田義兼の開基で新田一族の祈願所として建立され、ご本尊の十一面観世音は京都の醍醐寺より請来し、厄除の観世音で知られた。
山門手前の駐車場脇には十九夜塔・庚申塔などが並び、山門をくぐると弘法大師作と伝わる千手観音菩薩を祀る観音堂がある。
慈眼寺に隣接して金井神社がある。
往古は、金井村字余又の地にあったが、宝暦4年(1754)に現在地に遷座し、北辰社となり、のちに星宮神社と称し、明治5年(1872)に金井神社と改称したと云われている。
本殿は、覆屋の中で見えないが、一間社三方入母屋造りといい、壁面には透彫りや丸彫りなどの立派な彫刻が施されており、下野市指定有形文化財に指定されている。境内には、八坂神社・天満宮・雷電神社などの境内社がある。
金井神社を過ぎると右手に旧呉服屋があり、鉄パイプに網がかけられていた。
壁や窓枠が壊れているため、危険防止のための措置であろうか。

小金井宿本陣跡 旧家 蓮行寺 苅田
旧呉服屋跡の向かいに小金井宿本陣跡(大越家)がある。
小金井宿は、江戸日本橋から数えて14番目の宿場で、天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によれば、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒、人口767人であったという。
小金井宿本陣跡の斜向かいに旧家があり、この家も鉄パイプに網がかけられていた。
屋根がやや歪んでいるので、こちらも危険防止の措置であろう。
旧家の先の小金井北交差点を右折すると、突当りに日蓮正宗の珠栄山蓮行寺がある。
蓮行寺は、元徳元年(1329) 日秀上人の開基で、徳川将軍が日光社参の際には、宇都宮城主が、ここで出迎えを行ったと云われている。連行寺の庭は、砂が敷き詰められ、湖沼をイメージして数羽の鶴の像が置かれている。
蓮行寺を過ぎると街道左手には、苅田や畑が広がっている。

旧道口 旧道 下野市庁舎 稲荷社
街道左手に苅田を見ながら進むと、東京から87.9㎞標示の手前に旧道口がある。 国道4号線から旧道口に入って10m程先の電柱の脇から旧道が北に向かって延びている。民家の生垣と畑の間の道を進んで行く。 駐車場の脇の道らしき部分を進んで行くと、その先で下野市庁舎に突き当たる。
庁舎敷地の横断歩道を渡って進むと、庁舎近くの歩道上に日光街道案内が建っている。
下野市役所庁舎を回り込んで北口へ出ると、その先に街道が北に向かって延びており、進んで行くと県道183号線との交差点角に稲荷社の小祠がある。

田畑の中の街道 T字路 石仏群 星宮神社
県道183号線を越えると、街道両側には稲田・キャベツ畑・ねき畑など農地が広がっている。 一本道の街道をどんどん進むと林の手前でT字路に突き当たる。
この先の街道は消滅しているので、右に曲がって国道4号線に出る。
往時は、この林を抜けて国道4号線の下石橋北交差点まで直線の道があった。
国道4号線に出てどんどん進んで行くと、下石原北交差点の手前左手に石仏群がある。
先程のT字路からこの辺りに街道が抜けていたため、石仏群は国道4号線に背を向けて旧街道のあった方を向いて建っている。
ここには、地蔵菩薩・十九夜塔・庚申塔などが並んでいる。
石仏群のところを左に300m程進んで行くと星宮神社がある。
星宮神社の創建年代は不詳であるが、境内には神輿庫、聖徳太子碑、石祠、昭和10年(1935)の狛犬・手水鉢・常夜燈などがある。

観音堂 愛宕神社 石橋宿脇本陣跡 小社(石橋宿本陣跡)
星宮神社を出て下石橋北交差点から1㎞程進んだ本町交差点を過ぎると左手に愛宕神社があり、その参道左手に観音堂がある。
観音堂の裏手は墓地になっており、御堂の右手には二十三夜塔などが安置された覆屋がある。
観音堂の奥に愛宕神社がある。
愛宕神社は、天平宝宇3年(759)の創建で、天照大神などが祀られ、元は下石橋愛宕塚古墳の墳丘上に有ったが、東北本線の複線化により、大正2年(1913)に稲荷神社境内に遷座した。社格が上位の愛宕神社が社名を代表し、本殿には愛宕神社と稲荷神社が合祀されている。境内には下石橋愛宕塚古墳に使用されてた石室材が安置保存されている。
愛宕神社辺りが石橋宿の入口であり、先に進むと右手に脇本陣伊沢家跡がある。
かつての建物は残っていないが、同じ位置に家が建っている。
天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によれば、石橋宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒、人口414人であったという
脇本陣跡の直ぐ先左手の薬品店の脇に小社があり、周囲に庚申塔・石祠が建っている。
この辺りに石橋宿の本陣伊沢家があったという。

石橋駅
本日は石橋交差点を右折した突当りのJR石橋駅に出て終了である。
駅前ロータリーには、かなり高さのある 「からくり時計台」 が建っている。

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