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旧水戸街道   (土浦~石岡


平成30年4月29日(日)    ☀    土浦~石岡    15.0㎞
ここ数日、真夏のような気温の日もあり、ゴールデンウイークは前半の方が安定しているようである。早朝の電車は空いているかと思ったが、山手線は通勤時間帯とあまり変わらず、終始立ったままである。土浦駅に午前7時に到着し、ホームの立ち蕎麦で朝食を済ませて出発である。土浦宿から先は、中貫宿、稲吉宿、府中宿と続く。

枡形道 月読神社 北門の跡 北門跡標柱
前回の続きは、城北町交差点からであり、先に進むと左に直角に曲がる枡形道となる。
この先は更に右に曲がって北門跡へ向かう。
枡形道を左に曲がると、直ぐ左手に月読神社がある。
月読神社の創建年代等は不詳であるが、月読みは月齢を数えることであり、同じ社名の神社の多くは、月読命(ツクヨミ)を祭神としている。鳥居横に旧町名横町碑があり、鍵の手から真鍋口の 「馬出し」 までの間を横町と言い、馬出し入口の所に番所があった等々と記されている。
月読神社の先で右に直角に曲がると、右手に北門の跡碑が建っている。
碑には、「北門は松平信吉のとき設けられ、S字形の馬出しとともに水戸街道北口を守る重要な門であった。明治6年(1873)撤去された。」 と刻まれている。
北門の跡碑から50mほど先右手にも北門跡標柱が建っている。
標柱には、「北門は土浦城の北端、水戸街道の出入り口です。慶長8年(1603)、門の前に城の防御として馬出が築かれ、貞享3年(1686)にも追加されて全国に類を見ないS字形の馬出となりました。」 と記されている。

水戸街道道標 新川橋 新土浦駅跡 善應寺
新川橋の手前左手に水戸街道道標が建っている。 直ぐ先の新川は、昭和60年竣工の新川橋で渡っていく。
新川は、土浦市を西から東に向かって流れ、下流で霞ヶ浦に注いでいる。例年、3月下旬から4月上旬にかけて新川堤桜まつりが行われ、多くの花見客で賑わっている。
新川橋を渡って先に進むと、左手に筑波鉄道新土浦駅跡がある。
筑波鉄道は、かつて土浦市と西茨城郡岩瀬町(現桜川市)の40㎞を結んでいた鉄道であり、昭和62年(1987)に全線廃止となった。
新土浦駅のホーム跡は、そのまま状態で残っている。
先に進んで坂道手前の信号交差点を右に入ると、左手に真言宗の照井山善應寺がある。善應寺は、江戸時代初期の寛文10年(1670)に土浦城主である土屋数直によって再興され、その後歴代城主によって保護を受けてきた。
境内には、寛文10年(1670)土屋数直により土浦城の鬼門守護のために建てられた観音堂、室町時代作製と伝わる六地蔵石幢、土浦城内の上水道と用いられた照井などがある

坂道の街道 国道合流 真延寺 八坂神社
街道に戻ると信号十字路の先は坂道で、黒板塀の赴きある家が建ち並んでいる。 坂道の途中で左から回り込んできた国道125号線に合流する。 国道125号線に合流すると、左手後方に億萬山真延寺がある。
真延寺は、昭和60年(1985)に創建された無宗派の寺院である。境内には、正岡子規が土浦に立ち寄った際に詠んだ「霞みながら春雨ふるや湖の上」の句碑がある。
街道に戻って坂道を上り、土浦一校前信号の左手筋を170~180mほど西に入ると、右手に八坂神社がある。八坂神社は、江戸時代には土浦城の鎮守として、明治時代以降は土浦の総鎮守として奉斎されてきた。平成15年(2003)には、本殿・拝殿の解体修理が実施された。当社の宝物には、市指定文化財の土浦城櫓門の太鼓がある。
境内には招魂社・稲荷社の境内のほか、土浦市指定名木・古木のケヤキの大木がある。

旧道口 畏天明碑 松並木 板谷の一里塚跡
街道に戻って進み、前方に高架が見える手前の信号のところから右に入る旧道がある。 旧道に入って高架をくぐると右手の斜面に畏天命碑が建っている。かつて、真鍋町は街造りの一環として赤池周辺を桜の名所にせんと志し、昭和15年10月30日公園の中心と定めたこの地に茨城県出身の元法務大臣風見章氏揮毫になる 「畏天命」 のシンボル碑を建立した。しかしながら、その僅か4日後の11月3日真鍋町が土浦市と合併し土浦市が誕生したことにより、本計画は中止された。 畏天明碑の先から松並木が続いている。
水戸街道は、五街道に次ぐ重要な道路であり、千住から土浦を通り、水戸までの約30里の長さである。街道には、旅人を暑さ寒さから守るため松が植えられたが、現在はこの板谷地区に残りるのみである。
松並木の途中に板谷の一里塚跡がある。
板谷の一里塚は、江戸日本橋から数えて20里目、千住宿から18里目の一里塚跡であり、水戸街道の両側に残る一里塚としては、極めて貴重なものである。

道標 県道合流 旧道痕跡 中貫跨道橋
一里塚跡から坂道を下ってくると、左手筋の角に道標が建っている。
この道標は、昭和4年(1929)電燈建設記念に建てられたもので、「従是本村小学校役場経筑波道」 「石岡経水戸約四四粁 土浦経東京約七六粁」 と刻まれている。
坂道を下りきったところで県道64号線に合流し、水戸街道杉並木も終了する。 県道64号線に合流して先に進むと、左手に旧道痕跡があるが、その先で国道6号線(土浦バイパス)に突き当たり消滅している。 国道6号線(土浦バイパス)は、昭和53年3月竣工の中貫跨道橋で渡っていく。
ゴールデンウイークのためか、下を通る国道6号線(土浦バイパス)は車の渋滞が発生している。

中貫宿 鹿島八坂神社 旧家 安穏寺
中貫跨道橋を渡ると中貫宿に到着である。
中貫宿は、南北に500mほどの宿場町で、本陣が残されているが、宿泊を常とする本陣ではなく、休憩のための本陣であった。
中貫宿に入ると、直ぐ右手筋の奥に鹿島八坂神社がある。
八坂神社と合併する前の鹿島神社は、延喜元年(901)の創建と伝えられ、明治の初めに中貫村内の八坂神社と合併して鹿島八坂神社と改称し、村の鎮守となった。旧暦9月19日の祭日には、珍しい注連縄が鳥居に飾られる。
境内には、たくさんの石祠、文字庚申塔、道祖神などの石造物がある。
街道に戻ると、左右に立派な門を構えた旧家が3~4軒並んでいる。 街道左手に真言宗豊山派の安穏寺がある。
安穏寺は、文治元年(1185)創建と言われているが詳細は不明である。
境内には弘法堂のほか、如意輪観音を刻んだ十九夜塔、光明真言一億万遍供養塔などの石造物がある。

中貫宿本陣跡 馬頭観世音 かすみがうら市 厳島神社
街道に戻ると、安穏寺参道口の斜向かいに中貫宿本陣跡がある。
この本陣は、宿泊のためのものではなく、大名が休息するために設けられたものであり、建物は元治元年(1864)天狗党の焼打ちで焼失後、直ぐに再建されたものである。
現在、住宅として使われているため、内部の見学等はできない。
先に進んで中貫郵便局を過ぎると、右手の筋角に明治38年(1905)の馬頭観世音碑が建っている。 馬頭観世音碑から500mほど進むと、国道6号線に合流し、土浦市からかすみがうら市に入っていく。
近くには、東京から70㎞ポストが建っている。
東京から70㎞ポストの直ぐ先左手に清水公民館があり、この敷地内に厳島神社がある。
昔、日本武尊東征の途次、神社後方の崖下から湧き出す泉で喉を潤し、「この水きよし」 と言われたことから、清水という地名になったと言われている。現在、この泉は枯渇し、跡地に厳島神社御神池跡碑が建っている。
清水公民館の裏には、宝暦・享保・延宝などと刻まれた地蔵菩薩などが並んでいる。

小社 旧道口 刀工渡辺家 渡辺貞照の碑
厳島神社から先へ20分ほど進むと、左手の筋角に小社があり、中に石祠は安置されている。 小社から100mほど先の左手に旧道口があり、旧水戸街道稲吉宿入口の道標が建っている。
ちょっと入っただけで車の騒音は無く、一気に街道の風情が感じられる。
先に進むと上り坂となり、右手の家の前に 「刀工渡辺家」 と記された立札がある。 刀工渡辺家の向かいの筋奥に 「渡辺貞照の碑」 と記された立札があり、奥に進んでいくと左手の林の中に渡辺貞照の碑が建っている。
刀工の渡辺貞照は、文政2年(1819)下稲吉の渡邊家に生まれ、青年時代水戸の平井貞俊について鍛刀術を修めた。嘉永5年(1852)に志筑領主本堂氏の刀工となり、多くの名刀を残している。

稲吉宿本陣跡 旅籠皆川屋跡 正明寺 旧家
街道に戻って坂道を進み、信号交差点を越えると、右手に稲吉宿本陣跡(坂本家)がある。稲吉宿は、旅人の往来が多くなった万治年間(1658-61)に創設された宿場で、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠17という規模の宿場であった。当時は、本陣の向かい側に脇本陣があったが、現在は面影もなく、標柱等もない。 本陣跡(坂本家)の隣に旅籠皆川屋(木村家住宅)がある。
旅籠 「皆川屋」 は江戸時代末期の建築で、桁行8間二階の総瓦葺という堂々たる構えを見せている。建物前に 「茨城県指定文化財木村家住宅」 の標柱が建っている。
旅籠皆川屋跡の隣の民家脇から東へ延びる筋を入っていくと、真言宗豊山派の福聚山成就院正明寺がある。
正明寺の創建年代等は不詳であるが、境内には不動堂のほか、二十三夜塔・青面金剛の庚申塔・供養塔などの石造物がある。
街道に戻って千代田七会郵便局を過ぎると、右手に長い塀をめぐらし、立派な門を構えた旧家がある。

香取神社 天の川 馬頭観音 緑の街道
旧家の斜向かいの林の中に香取神社がある。
香取神社は、日本武尊が東征の折、霞ヶ浦から荒張川を上り、ここ香取神社に到着し休憩されたところと言われている。
木々に覆われた参道の奥に社殿があり、境内には浅間神社の石祠のほか、貞享5年(1688)6月松尾芭蕉が 「笈の小文」 の旅の帰路で詠んだ句碑がある。
香取神社の先は下りの道となり、その先で天の川に架かる橋を渡っていく。
天の川は土浦市東城寺付近に源を発し、筑波連山東麓沿いを流れ、下流で恋瀬川に注いでいる。
天の川の上流には水田が広がっており、下流には国道6号線に架かる天の川橋が見えている。
天の川を渡り、その先の坂道を上って行くと、上り詰めた右手の段上に馬頭観音が2基建っている。
表面が削られており、年代は不明であるが、馬頭観世音菩薩と刻まれている。馬頭観音の道路を挟んだ向かい側(左)には、かすみがうら市千代田庁舎が建っている。
馬頭観音前の信号交差点を越えると、緑に囲まれた下り坂となる。

道祖神 子安神社 家並み 観音寺
坂道を下り、左手に水田が広がったところから再び上り坂となり、坂道を200mほど進むと、左手の民家脇に鳥居がある。
鳥居の奥には、小さな石祠があり、その周囲に道祖神碑・男女双体道祖神がある。
坂道の右手段上に子安神社がある。
境内の子安神社には、子供を抱いた観世音菩薩が安置され、隣に大日如来の幕が掛かった小社がある。
周囲には十九夜塔・六地蔵石幢・五輪塔・弘法大師像などの石造物がある。
街道に戻って坂道を上り詰めると、上土田集落となり、左右に立派な門を構えた旧家が並んでいる。 先に進むと、左手に高野山真言宗の菩提山観音寺がある。
観音寺の創建年代等は不詳であるが、山門前に六地蔵尊が並び、境内には如来堂・不動堂・弘法堂・地蔵堂のほか、宝篋印塔・光明真言供養塔などの石造物がある。
不動堂には、鎌倉末期の製作と推定される市指定文化財の不動明王像が祀られており、別名 「波切不動」 と呼ばれている。

廃寺 馬頭観音 中根長者屋敷跡 旧道口
観音寺の直ぐ先で県道53号線を越えると、街道が右に曲がるところの右手に御堂が2つあるが、廃寺のようである。
手前の御堂横の植栽のところに、宝永・寛政などの如意輪観音を刻んだ十九夜塔などの石造物がある。
廃寺の先をどんどん進むと、左手の塚越行政書士事務所の先の左手筋に、嘉永元年(1848)の馬頭観音・寛政10年(1798)の二十三夜塔などの石造物がある。 先に進んで国道6号線に合流する手前の左手筋を300mほど西に進むと、中根長者屋敷跡がある。 天正年間(1573-91)に中根与衛門という豪族がおり、佐竹氏から軍用金の徴用を受けた際、これを拒絶したため、佐竹氏に滅ぼされたと伝えられている。
現在は浄土真宗本願寺派の往西寺があり、天保2年(1831)釋真誠僧侶が御堂を建てたことに始まると伝えられている。
街道に戻って国道6号線を横断すると、国道6号線に沿った旧道が北に向かって延びている。

馬頭観音 行き止り 千代田一里塚跡 旧道口
国道6号線に沿って先に進んでいくと、左手斜面に天保12年(1841)の新田講中と刻まれた馬頭観世音碑が建っている。 馬頭観世音の先は、常磐自動車道と国道6号線を繋ぐ千代田石岡インターチェンジによって消滅している。
この先は、少し戻って国道6号線下をくぐり抜けて、反対側に出て国道6号線上に出る。
国道6号線に出て進むと,、千代田石岡インターチェンジ入口と国道6号線の間に千代田の一里塚跡がある。
木々が生い茂って塚は良くわからないが、塚上には一里塚碑が建っており、先に進んだ横断歩道橋から全体の様子がわかる。
ここは江戸日本橋から数えて22里目、千住宿から20里目の一里塚跡である。
国道6号線を先に進んでいくと、西野寺歩道橋の左手に旧道口があり、左脇に立つ木の下に馬歴神碑・昭和13年(1938)の生馬神供養碑・明治19年(1886)の石祠がある。

馬頭観音 忠魂碑 弘法祠 旧恋瀬橋
先に進むと左手筋の入口に、風化の進んだ馬頭観音が建っている。 街道がやや下り坂になると、左手段上に忠魂碑が建っている。
碑面は漢文で刻まれているが、明治38年(1905)に建立されたもので、故陸軍補充兵歩兵一等卒茅場平蔵君墓表と刻まれている。
下り坂を先に進むと、左手の高野歯科医院の手前にある防火水槽の奥に弘法大師を祀った石祠があり、傍らに天保2年(1831)の石碑・供養塔などがある。 道なりに先に進んでいくと恋瀬川に突き当たり消滅しているが、この道は旧国道であり、旧水戸街道は恋瀬川に突き当たる手前から国道6号線を渡り、その右を通っていたようである。
恋瀬川の手前には、旧国道を結んでいた旧恋瀬橋の親柱と欄干の一部が保存されている。

恋瀬橋 旧道口 日天宮 枡形道
恋瀬川は国道6号線を結ぶ平成11年5月竣工の恋瀬橋で渡っていく。
恋瀬川は、石岡市北部の吾国山に源を発し、かすみがうら市域を南東に流れ、下流で霞ヶ浦に注いでいる。恋瀬橋の上からは、上流に筑波山を望むことが出来る
先に進み、国府7丁目交差点で国道6号線から左の国道355号線に入り、200mほど先で左の旧道に入っていく。 旧道に入って間もなく、左手に日天宮がある。常陸国衙が置かれた石岡には、太陽を祀る日天宮、月を祀る月天宮、星を祀る星の宮が置かれ、府中三光宮と呼ばれた。現存するのは日天宮と月天宮で、星の宮は地名として残っている。
ここ日天宮の祭神は、天照大神で、大小二つの鳥居と社殿があり、本殿左に稲荷大明神、右に御嶽神社がある。
街道に戻って先に進むと、突き当りを右に直角に曲がる枡形道となり、国道355号線に合流する。

府中誉㈱ 北向観音堂 平福寺 清凉寺
国道355号線に合流して直ぐ、右手筋を入ると造り酒屋府中誉㈱がある。
府中誉㈱は、安政元年(1854)の創業で、幻の酒米「渡船」を原料米とした「渡舟」を初めとして、代表銘柄の「府中誉」が造られている。
あいにく休みで門扉は閉じられていたが、府中誉主屋は明治2年(1869)、長屋門は明治初期の建築で貴重な建物である。
府中誉株に隣接して北向観音堂がある。
北向観音堂は、常陸国総社宮の地内にあった神宮寺の観音堂として建てられたと言われており、元禄年間(1688-1703)神宮寺が現在地から北方50mの富田町内に移され、更にその後、現在地に移ったことにより、観音堂もこの地に移築されたという。堂内には十一面観世音菩薩が祀られている。
境内には地蔵堂のほか、文政6年(1823)の常夜燈などがある。
観音堂の南側で、府中誉㈱の東に隣接して曹洞宗の春林山平福寺がある。
平福寺はもと天台宗で、興国山と称し、府中五大寺院(平福寺・不動院・龍光院・千手院・照光院)の一つである。
また平福寺は、常陸平氏の菩提寺として知られ、本堂正面に常陸大掾氏碑・藤原景清の墓があり、墓所には大掾氏の五輪塔が14基建っている。
街道に戻って先に進むと、国府公園入口を過ぎた左手に曹洞宗の興国山清凉寺がある。
清凉寺は、元徳2年(1330)第14代大掾氏・平高幹(入道浄永)が尼寺ヶ原に真言宗の寺院として創建したが、文亀元年(1501)曹洞宗に改宗した。
その後、天正18年(1590)大掾氏が佐竹氏に攻められ滅亡の際に清凉寺も焼失しが、佐竹義宣の叔父南義尚が府中城主となり、清凉寺を菩提寺として再建した。境内には府中藩代官や、漫画家手塚治氏の先祖の墓などがある。

金比羅神社 宇迦魂稲荷神社 丁子屋 福島屋砂糖店
続いて左手に金比羅神社がある。
金比羅神社は、当初、大掾氏が守護神として香取神宮を祀ったことに始まり、その後、文政10年(1827)に讃岐国象頭山の金毘羅大権現の分霊を勧請して社殿を造営した。しかし天正18年(1590)の戦乱により焼失し、平氏の後裔である別当八大院によって神社が復興され、大掾氏族の信仰を守り伝えている。境内には神厩舎、粟嶋神社のほか、正岡子規の句碑がある。
金比羅神社の斜向かいにある筋を東に進み、最初の十字路を右に曲がると宇迦魂稲荷神社がある。
当社の創建年代は不詳であるが、祭神は宇迦魂命(うかのみたまのみこと)で、豊穣を願う農民の信仰神である。境内には、大六天宮(山倉大神)の社と大山阿夫利神社が合祀されている。
街道に戻ると金比羅神社の駐車場の隣に丁子屋が建っている。
丁子屋は、江戸時代に建てられた木造二階建ての商家建築である。昭和4年(1929)の大火で焼失を免れた商家建築では、現存する唯一の建物で、大火以前の土蔵も残っており、国の登録有形文化財になっている。
丁子屋の道路を挟んだ斜向かいに、福島屋砂糖店がある。
この建物は、昭和6年(1931)に建てられた木造二階建ての商家建築であり、土蔵造りの壁が土壁漆喰塗りではなくコンクリートで出来ていて珍しい。黒塗りの外壁が重厚さを与え、昭和4年(1929)の大火後に建替えられたもので、国の登録有形文化財になっている。

久松商店 十七屋履物店 すがや化粧品店 生蕎麦東京庵
福島屋砂糖店の隣に久松商店がある。
久松商店は、昭和5年(1930)頃に建てられた木造二階建ての看板建築であり、下見板張りの正面外壁は、銅板が張られている。
昭和4年(1929)の大火後、この地区の店舗の再建に広く採用された看板建築の一例であり、国の登録有形文化財になっている。
久松商店の隣に十七屋履物店がある。
この建物は、昭和5年(1930)に建てられた木造二階建ての看板建築であり、二階は持ち送風の柱頭飾りを中心にして縦長の蓮窓を左右し配している。
昭和4年(1929)の大火後、この地区で最初に再建され、この地区における看板建築の先駆けとなったもので、国の登録有形文化財になっている。
十七屋履物店の道路を挟んだ斜向かいに、すがや化粧品店がある。
この建物は、昭和5年(1930)頃に建てられた木造二階建ての看板建築である。屋号を冠したペディメントやコリント、イオニア様式風の柱頭飾りなど重厚な外観で、この地区における看板建築の秀逸なものの一つであり、国の登録有形文化財になっている。
すがや化粧品店の直ぐ先、右手に生蕎麦東京庵がある。
生蕎麦東京庵は、昭和7年(1932)頃に建てられた木造二階建ての和風食堂建築であり、戦後、一階床上部分を土間にして、テーブルと椅子を置いて客用の空間とした。
数寄屋風の洒落た意匠は、この地区では珍しいもので、国の登録有形文化財になっている。

森戸文四郎商店 府中宿本陣跡 石岡町道路元標 照光寺
生蕎麦東京庵の道路を挟んだ向かいに、森戸文四郎商店がある。
この建物は、昭和5年(1930)頃に建てられた木造二階建ての看板建築である。柱のレリーフ、縦長の窓、褐色のタイルなど全体にアールデコ調の外観は、正面を洋風の意匠で飾る看板建築の好例であり、国の登録有形文化財になっている。
森戸文四郎商店から100mほど先の右手にパンとケーキの店 「ヴィオレ」 が建っているが、、この辺りが府中宿本陣跡である。
現在は、遺構も解説などの標柱もなく、痕跡は全く残っていない。
パンとケーキの店 「ヴィオレ」 の隣にある筑波銀行石岡支店の前に、石岡町道路元標が建っている。 石岡町道路元標の向かいの筋を西に150mほど進むと、右手に浄土宗の雷電山西向院照光寺がある。照光寺は、応安7年(1374)に常陸大掾高幹(浄永)を開基とし、良善上人(下野国円通寺開山良栄上人の高弟)を開山として、鹿の子の地に創建されたと伝えられている。
境内には、大正15年(1926)に江戸小石川宗慶寺にあった常陸府中藩主松平家墓所が移転されている。

福徳稲荷神社 常陸国分寺跡 威徳院 JR石岡駅
街道に戻って先に進み、香丸町信号で右手筋に入っていくと、左手に福徳稲荷神社がある。
偶之宮稲荷神社由来記によると、祭神は稲倉魂命
(うかのみたまのみこと)と天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)の二柱であり、常陸大掾氏が府中城を築くとき、本社を鬼門に建て、守護神として祀ったという。
街道は国分町信号交差点を右折して行くが、200mほど直進すると左手に常陸国分寺跡がある。国分寺は聖武天皇の勅願により、天平12年(741)以来、国ごとに設置された寺院で、常陸国分寺は、天平勝宝4年(752)に建立され、金光明四天王護国之寺という。
境内には、薬師堂・扇歌堂・弘法堂・旧千手院山門などがある。
街道に戻って国分町信号交差点を右折して行くと、左手に威徳院がある。
威徳院の創建年代等は不詳であるが、
墓地の入口に威徳院の扁額が掛かる御堂があるのみで、手前には安産不動尊の御堂が建っている。
今回は、JR常磐線の跨線橋の手前で終了し、最寄りのJR石岡駅に出て帰宅の途に就いた。

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