扇歌堂の都々一坊扇歌像
弘法堂
弘法堂の弘法大師像
都々一坊扇歌は、文化元年(1804)医者岡玄策の子として久慈郡磯部村(常陸太田市磯部)に生まれ、幼名を子之松、のちに福次郎と改めた。幼少の折、病により失明同様となったが、芸の道を志し、20歳のとき江戸に出て、船遊亭扇橋の弟子となった。その後、寄席芸人としての修行が続き、天保9年(1838)一枚看板を許され、当時流行していた「よしこの節」「いたこ節」などを工夫して、新しく「都々逸節」を作り都々一坊扇歌と名乗った。
扇歌は、高座にあって聴衆からのナゾかけを即座に解いてしまう頭の回転の早さが、江戸庶民の評判になったというが、当時の政治や社会を批判したため、江戸追放の身となった。その発端となったのは「上は金下は杭なし吾妻橋」の一句であった。
江戸を追放された扇歌は、姉の嫁ぎ先府中香丸町の酒井長五郎の旅宿に身を寄せ、嘉永5年(1852)48歳で没した。昭和8年(1933)、都々一坊扇歌を記念し、町内有志の呼びかけにより扇歌堂が建立された。
薬師堂内陣
都々一坊扇歌堂解説
都々一坊扇歌堂
常陸国分寺中門跡
旧千手院山門
国分寺本堂
不動堂の不動明王像
不動堂
忠魂碑
薬師堂
薬師堂に掛かる薬師如来の扁額
本堂に掛かる国分寺の扁額