常陸大掾氏碑
景清の墓・五輪塔
子育地蔵尊
景清之墓標柱
稲荷神社
稲荷神社の手水石
無縁塔
◇大掾氏との関わり
常陸大掾氏の菩提寺である。当時としては、役寺=官寺であった。また境内には大掾氏遺墟の碑が建つ。
◇エピソード~大掾氏代々が眠る
墓所の中央に位置するものが最大の五輪塔で、全高1.62m、それを取り囲むように3方周囲には、14基の五輪塔が林立している。これらの五輪塔は、平安時代から戦国時代まで、常陸国に勢力を誇った豪族・常陸大掾氏の墓塔といわれている。
春林平福寺
本尊は如意輪観世音菩薩。平福寺の開基は、平国香(良望)である。国香は、平安中期に始まる桓武平氏初代の平高望の長子で、武家平氏の実質的な祖の一人といわれ、常陸大掾・鎮守府将軍をつとめた。「官部不動院文書」には不動院・龍光院・千手院・照光寺とともに府中五大寺として平福寺の名があげられている。また「西大寺末寺帳」に「常陸国・平福寺」の記述が見え、奈良西大寺の末として近世に至っている。
境内には景清の墓と伝えられる五輪塔が存在し、享保年間(1716-35)の古文書によると「平福寺の景清観音堂は、先年岩城内から引き立て置いたものである。」とある。この景清とは平安末期の武将である平景清(藤原景清)のことで、源平の戦いでの活躍と波乱に満ちた生涯は、能の舞台で演じられ、歌舞伎十八番の一つとしても知られている。景清は、石岡で誕生したという伝承があり、この景清の墓の他にも、市内には、産湯をつかった室ヶ井の水(府中六井の一つ))や貝地の景清塚など、悲運の勇将景清の面影が残る。
(石岡市教育委員会)
大掾氏墓所 (14基の五輪塔)
平福寺本堂
本堂前の植栽
平福寺解説