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旧水戸街道   (牛久~土浦


平成30年4月10日(火)    ☀    牛久~土浦    15.0㎞
牛久から先の街道は、ほぼ国道6号線かその脇を通る道であり、街道筋には神社仏閣を含めてどの程度の史跡がのこっているか不安であるが、出来るだけ寄り道をして進んでいこうと思う。牛久宿から先は、荒川沖宿、中村宿、土浦宿と続く。

薬師寺 旧道口 真浄寺 スダジイ
牛久駅から国道6号線に出て間もなく、左手に真言宗豊山派の田宮山薬師寺がある。
薬師寺は、弘仁7年(816)徳一和尚により開基されたと伝えられている。
街道から長い参道を進むと静かな境内に本堂・鐘楼・大師堂・阿弥陀堂などの堂宇があり、鐘楼の四隅には四天王が立っている。
参道脇には鹿島神社があり、牛久指定文化財の金剛界大日如来像がある。
街道に戻って進み、田宮町信号を過ぎると左手に旧道口がある。
この道は直ぐ先で国道6号線に合流する。
国道6号線の日本橋から53㎞ポストを過ぎて先に進むと、右手に真言宗の大日山真浄寺がある。真浄寺の創建年代等は不詳であるが、真言密教の教えを教義とする祈祷寺で、ご本尊は不動明王であり、別名牛久厄除け不動尊と呼ばれている。
境内には荼枳尼天尊を祀る稲荷神社、愛染明王・薬師如来を祀る石祠のほか、たくさんの地蔵菩薩が安置されている。
学園都市南入口交差点で国道408号線を越えると、右手に一本の巨木が立っている。
この巨木は、推定樹齢250年、樹回り4.4m、樹高15mのスダジイである。ここ猪子の集落は、江戸時代の元禄期(1688-1703)に今の位置に移ったもので、陸前浜街道(旧水戸街道)にあるこの木は、いつも緑をたたえ、山の神を祀った御神木として代々伝えられ、明治中期の大火の際には、ここで火をくい止めたと言われている。

旧家 石仏群 鹿島神社 高架
スダジイから程なく左手に寺院の山門を思わせる門を構えた旧家がある。 旧家の直ぐ先の猪子町信号の左手に猪子区民会館があり、この敷地内に地蔵菩薩などの石造物がある。 猪子町信号の左手筋を200mほど北西に入ったところに鹿島神社がある。
鹿島神社は墓地の隣にあり、鹿島神社の社殿の隣には、やや小ぶりな三峰神社の社殿も建っている。
周囲には、寛政2年(1790)・天保3年(1832)など刻まれた道祖神石祠が数基建っている。
東京から54㎞ポストを過ぎて先に進むと、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の高架が横切っている。
高架下には小野川に架かる小野川橋があり、左手には水田が広がっている。小野川は、つくば市に源を発し、牛久市を縦断して、下流で霞ヶ浦に注いでいる。また江戸時代には、年貢米や薪炭を江戸に運ぶ水運として発達し、重要な交通の要衝であった。

御嶽神社 国道6号線 牛久跨道橋 中根一里塚
左に進んで、中根町信号の手前の左手筋を60~70mほど入ると、左手に御嶽神社がある。御嶽神社の創建年代等は不詳であるが、境内には金比羅大権現石祠、一面六臂の青面金剛の庚申塔などの石造物がある。 街道に戻ると歩道脇に東京から54㎞ポストがあり、車の往来は途切れることがない。
神社仏閣に退避された庚申塔・道祖神などを目にしない限り、旧水戸街道を偲ばせるものはない。
先に進んで、県道274号線を昭和59年3月竣工の牛久跨道橋で越えていく。 ひたち野うしく駅入口を過ぎて、東瑞穴入口信号を越えると右手に中根一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて17里目、千住宿から15里目であり、向かい側に荒川沖の一里塚(土浦市)がある。
一対の一里塚であるが、行政区が異なることから、別の名前が付けられている。

妙向寺 旧道口・八幡神社 道祖神 荒川橋
先に進み、右手の妙向寺前バス停脇の筋を東に入ると、JR常磐線を越えたところに法華宗陣門流の本法山妙向寺がある。
妙向寺は、常陸国に新田開発と一寺建立の大願のもと、宝暦12年(1762)に創建されたと言われている。山門脇には安政2年(1855)の日完の南無妙法蓮華経題目碑があり、境内は植栽があり、庭園のごとく整備が行き届いている。
街道に戻ると、荒川沖南区信号のところから右に分岐する旧道口がある。
この旧道口の右手には、平成8年(1996)に氏子の多額の献金により寂れた神社の鞘堂を寄進して蘇った八幡神社があり、拝殿には神明社が合祀されている。
旧道に入ると、直ぐ右手に小社があり、中には道祖神の石祠が2基祀られている。 道祖神から50mほど先に、乙戸川に架かる荒川橋がある。
ここから荒川沖宿に入っていくが、荒川沖とい地名は、乙戸川がしばしば氾濫し、荒れ川と呼ばれたことに由来する。乙戸川は、北西にある乙戸沼から流れ出し、下流で小野川に合流している。

街道 稲荷神社 旧家 天満神社
荒川橋を渡って先に進むと、古い板塀の家屋もあり、ちょっとではあるが旧道の面影を偲ばせている。 先に進んで、右手の読売新聞販売店の先の左手筋を国道6号線方向に進むと、左手に稲荷神社がある。
この稲荷神社は人格神で、二柱の神を祀っている。享保の大飢饉が起こったとき、牛久藩庁代官所の役人で荒川沖宿の担当であった小松原父子の領民救済の働きに報いるため、住民が建立したものである。国道6号線の手前が前の院(子)、国道6号線を渡ったところが奥の院(父)である。
街道に戻ると、直ぐ右手に黒塀をめぐらした大きな旧家がある。 先に進むと、左手の土浦警察署荒川沖交番の隣に天満神社がある。
天満神社のご祭神は菅原道真であるが、当社の創建年代等は不詳である。境内には三峰山の石祠、力石などの石造物がある。

弘法堂 旧旅籠佐野屋 旧家 旧家
土浦警察署荒川沖交番の裏手に弘法大師堂があり、中に3体の弘法大師像が祀られている。 先に進むと、左手に茅葺屋根の旧旅籠佐野屋 が建っている。
現在、旅館としてではなく、普通に生活する住居として使われており、一般公開はされていない。
旧旅籠佐野屋の100mほど先、左手に茅葺屋根の旧家がある。 更に100mほど進むと、左手に立派な門を構えた旧家がある。

国道6号線合流 旧道口 道標 名残松
街道は、国道6号線に合流し、東京から59㎞ポストを見て、再び車の往来が激しい横を通っていく。 国道6号線を800mほど進むと、中村南4丁目信号のところから右に入る旧道がある。
この旧道も800mほど先で国道6号線に突き当たる。
旧道に入って最初の信号十字路の右角に、明治5年(1872)の道標が建っている。
道標には、「従是東境内迄十二丁・日先大神道」 と刻まれている。
日先大神は、ここから東へ進み、JR常磐線を越えた1.3㎞ほど先にある。
先に進むと国道6号線に突き当たる手前に、旧街道を偲ばせる名残松がある。
この辺りに原の前一里塚があった。

庚申塔・石仏 旧道 大川橋 道標
国道6号線を原の前信号交差点で斜めに横断して進むと、街道が右にカーブするところに大きな木が張り出しており、その下に青面金剛の庚申塔が建っている。
庚申塔の奥は墓地で、その手前に石仏などがたくさん並んでいる。
街道は集落の中を通っているが、車の往来も少なく、緑の多い道で快適である。 右手に土浦市立東小学校を見て下り坂を進み、東小学校下交差点で国道354号線を越えると、花室川に架かる大川橋がある。
花室川は、つくば市玉取付近に源を発し、下流で霞ヶ浦に注いでいる。
大川橋を渡って進むと、直ぐ先の左手筋角に道標が建っている。
道標には、「御大典記念東青年会」 「當字ヲ経テ小岩田大岩田○○」 などと刻まれているが、全面は判読できない。。

大聖寺 跨道橋 鹿島神社 アンティークモール
道標の先左手に真言宗豊山派の羽黒山今泉院大聖寺がある。大聖寺は、長徳元年(995)に醍醐寺成尊僧都により、今泉寺として開山されたと言われ、その後、応安7年(1374)16世祐尊代に、この地の豪族小田氏が 「小田城四方護寺」 を設けたのを機に大聖寺と改めたと言われる。参道には、山門・四脚門があり、境内には護摩堂・観音堂・大杉殿などの他、新四国八十八ヶ所巡りの霊場がある。 街道に戻って進み、国道6号線(土浦バイパス)を跨道橋で越えていく。 永国信号交差点で国道354号線に合流し、その先右手一本目の筋を150~160mほど入ると、左手に鹿島神社がある。
鹿島神社の創建年代等は不詳であるが、境内には、文化7年(1810)の愛宕山大権現碑、二十三夜塔のほか、「當字ヲ経テ陸前浜海道ニ通ズ」 と刻まれた道標などがある。
街道に戻って進むと、左手に大きな看板と黄色いスクールバスが目立つ、アンティークモールがある。
かつてリサイクルショップだった建物を改装してレストイランとアンティークショップを併設している。

馬頭観世音 地蔵堂 旧家 旧道口
先に進むと、左手にあるセブンイレブンの脇の筋に馬頭観世音碑が建っている。
この馬頭観世音碑は、天保15年(1844)のもので道標を兼ねており、「水海道布施関宿流山道」 と刻まれている。
手前に自然石に刻まれた小さな道標があるが、下部は土に埋もれ、文字もはっきり読み取れない。
街道左手の土浦市消防団第22分団建屋の奥に地蔵堂があり、土浦市指定文化財の地蔵菩薩が祀られている。
地蔵堂の傍らには弘法堂があり、一体の弘法大師像が祀られている。
街道を先に進むと、ここ中高津には大きな屋敷が多く、街道筋に数軒の立派な家が建ち並んでいる。 医療センター入口信号のY字路右手が旧道で、ここで国道354号線と分かれていく。

旧道 道標 愛宕神社 常福寺
旧道に入ると直ぐ右手が、独立行政法人国立病院機構霞ヶ浦医療センターで、広大な敷地を有している。
ここから車の往来はほとんどなく、快適な街道歩きとなる。
霞ヶ浦医療センターの脇を下っていくと、街道が左にカーブするところの右角に道標が建っている。
小さい方が享保18年(1733)に建てられた道標で、「右江戸道」 「左なめ川阿ば道」 と刻まれている。道標の左筋は阿波街道であるが、霞ヶ浦医療センターの敷地で消滅している。
道標のところから左に下ると、左手の段上に愛宕神社がある。
愛宕神社は、天慶年間(938-48)の創建で、旧土浦城下を臨む高台にあり、寛文9年(1669)に城主となった土屋数直が城の鬼門を守護するために奉斎し、社殿などを改築したと伝えられている。ご祭神は軻遇突知命(カグツチノミコト)で、境内には市指定文化財の社殿、高津稲荷神社のほか、享保5年(1720)の鳥居などがある。
愛宕神社の西側に隣接して、新義真言宗の常福寺がある。
常福寺は、平安時代初期、最澄の弟子の天台僧最仙の開基と伝えられ、その後、真言宗に改宗された。ご本尊は木造薬師如来坐像で、国指定重要文化財に指定されている。
境内には不動堂・大師堂のほか、推定樹齢400年のイチョウの雌木がある。

銭亀橋 県道24号線 南門跡 枡形道
街道に戻って先に進むと、桜川に架かる銭亀橋がある。
銭亀橋は、慶長18年(1613)水戸街道の橋として初めて架橋された歴史ある橋である。
当時は、木造の太鼓橋であったという。
下を流れる桜川は、桜川市鍬柄山に源を発し、筑波山系の山麓の田園地帯を下り、下流で霞ヶ浦に注いでいる。
桜川を渡って進んでいくと、県道24号線の高架が横切っている。 県道24号線の高架下を渡ると左角に南門の跡碑が建っている。
土浦城南門は松平信吉のときに設けられ、享保12年(1727)までは、南門の前は川が流れており、板橋が架けられていた。
南門の跡の先は枡形道となっており、敵の侵入を妨げる工夫をした当時の面影が残っている。

東光寺 等覚寺 花蔵院 枡形道
枡形道の右手民家の間の奥に、曹洞宗の東光寺がある。東光寺は、慶長12年(1607)心庵春伝によって開かれたと伝えられている。
境内には、元文4年(1739)建立の瑠璃光殿、稲荷社、池の中に弁財天などがあり、瑠璃光殿前には内田野帆句碑 「声に身を持たせて揚る雲雀かな」 がある。
この他、文化11年(1814)の順拝供養塔、延享2年(1745)の六地蔵尊など古い石造物が並んでいる。
街道に戻ると、続いて右手に真宗大谷派の蓮光山正聚院等覚寺がある。
等覚寺は、もと常陸藤沢にあった藤沢山三教閣極楽寺で、了信による開基と伝えられているが、慶長10年(1605)に現在地に移転して、等覚寺と改めた。境内には常陸三古鐘の一つに数えられている国指定文化財の銅鐘と、慶應元年(1865)に建てられた鐘楼がある。また本堂の前には、土浦市指定名木・古木のクロマツがある。
等覚寺参道口の斜向かいに、真言宗豊山派の花蔵院参道口があり、簡素な山門の先に不動堂が建っている。
花蔵院の創建年代等は不詳であるが、不動堂の裏手に江戸時代の町人学者・沼尻墨僊の墓がある。墨僊は塾 「天章堂」 を開き、82歳まで教育に携わった。和歌や詩文、書画に長け、天体観測なども行い 「大輿地球儀」 を創作している。
街道に戻るとT字路に突き当たり、直ぐ先で左に折れる枡形道となっている。

大手門跡 土浦城跡 中城天満宮 吾妻庵総本店
枡形道を曲がって直ぐ左手の筋を入ると、突き当りに大手門跡がある。この付近には、土浦城の正門(表門)である大手門があった。
それは、二門を備えた内枡形であり」、外側が単層の門、内側が二層の櫓門であった。記録によれば元和8年(1622)に建てられ、明治6年(1873)に取り壊されたという。明治18年(1885)には、この地に土浦西小学校付属幼稚園として、茨城県下で最初の幼稚園が設置された。
大手門跡の直ぐ北側が土浦城跡公園である。土浦城は、永享年間(1429-41)常陸守護八田知家の後裔、豪族の小田氏に属する若泉三郎が築いたのが最初と云われる。その後、城主は幾度となく変わり、江戸時代にも結城秀康、松平信一、西尾忠永、土屋数直、松平信興と代わり、貞享4年(1687)に土屋政直となって明治維新まで11代に亘って領地を治めた。城跡には、西櫓・東櫓が復元され、本丸表門・裏門・、前川口門が残っている。 街道に戻って大手門入口の先を進むと、右手筋50mほどのところに中城天満宮がある。
中城天満宮の創建年代等は不詳であるが、源義家が奥州征伐の軍馬を閲した伝説があり、江戸時代には、3月に駒市(馬市)がたち、たくさんの人馬が集まったという。祭神は菅原道真で、書道・学問の信仰を集めている。
街道に戻ると右手に庵看板を掲げた吾妻庵総本店がある。
吾妻庵総本店は、明治6年(1873)創業のお蕎麦屋さんで、人気は天ぷら蕎麦だという。

矢口家住宅 まちかど蔵「大徳」 まちかど蔵「野村」 中城山不動院
吾妻庵総本店の二軒隣に重厚な造りの矢口家住宅がある。
この建物は土蔵造りで、店蔵(右)と袖蔵(左)、別に建てられた奥の元蔵より成っている。
店蔵と袖蔵は嘉永2年(1849)、元蔵は慶応年間(1865-67)に建てられ、茨城県内に現存する土蔵造りの商家建築の中では特に貴重なものである。
矢口家住宅の隣に、まちかど蔵 「大徳」 がある。
大徳は、江戸時代後期の天明5年(1785)に創業された呉服店であり、蔵は天保13年(1842)建築の元蔵、江戸時代末期に建築された見世蔵、袖蔵及び向蔵の4棟から成っている。
現在、改装した蔵で観光案内や観光土産品の販売が行われている。
まちかど蔵 「大徳」 の街道を挟んだ向かいに、まちかど蔵 「野村」 がある。
この建物は、江戸時代後期から明治時代初期に建てられた蔵で、現在、そば打ち体験などができる多目的工房と喫茶店として利用されている。
まちかど蔵「野村」の右脇筋の奥に中城山不動院がある。
不動院は、応永年間(1394-1427)土浦郷の豪族・若泉氏による創建と伝えられている。
境内には、有形民族文化財の力石のほか、寛政元年(1789)の二十三夜塔、寛政12年(1800)の青面金剛の庚申塔などの石造物がある。

琴平神社 桜橋親柱 土浦宿本陣跡 稲荷神社
不動院の隣には琴平神社があり、沼尻墨僊がこの境内に寺子屋を開いたという。
神社社務所は、かつて地域の人たちが集い、コミュニケーションを取っていた共同井戸があったことに由来して、「井戸端庵」 と名付けられている。
参道脇には、石燈籠が並び、沼尻墨僊の七回忌に門弟によって建てられた退筆塚がある。
先に進んで国道125号線に突き当たると、右手角に桜橋親柱が建っている。
この国道125号線は、かつて存在した川口川(桜川)を埋め立てたものであり、昭和10年(1935)に川が埋め立てられるまで、水運が行われていた。この川口川(桜川)と水戸街道との交差するところに 「桜橋」 が架かっていた。
桜橋親柱の隣には、土浦町道路元標が建っている。
国道125号線を渡ると、右手の土浦商工会議所の前に土浦宿本陣跡がある。
土浦宿本陣は、東埼の名主であった大塚家が務め、本陣と共に問屋も兼ねていた。土浦宿本陣は2ヶ所あり、もう一つの山口家は、まちかど蔵 「大徳」 の近くにあったというが、標柱もなく不明である。
本陣跡の先は左へ直角に曲がっていく枡形道で、曲がって直ぐ右手の筋を入ると、左手に稲荷神社がある。
参道口の鳥居の上部に島木・貫は無く、一見鳥居に見えないので素通りしてしまいそうである。
稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、境内には弘法堂のほか、絵馬堂がありたくさんの狛狐が奉納されている。

済岸寺 高翁寺 千手院 阿弥陀院
稲荷神社に隣接して臨済宗建長寺派の霊鷲山済岸寺がある。
済岸寺は、寛永20年(1643)土浦藩主西尾忠照が菩提寺として建立した。境内には明治期の官吏で、明治・大正期の俳人・内藤鳴雪の句碑がある。また墓所には藩校郁文館の教授であり、明治維新に二分された藩論を新政府側に統一した中心人物・中田平山の墓がある。境内の奥は隣接する稲荷神社境内に繋がっている。
済岸寺の筋を更に東へ50mほど進むと、左手に浄土宗の清照山厳興院高翁寺がある。
高翁寺は、永禄3年(1560)新太因旛守源貞信の開基であり、本尊は阿弥陀三尊像である。参道途中に秋葉神社があり、境内には享保19年(1734)の地蔵菩薩供養塔、一石六地蔵尊、弘法大師像などの石造物がある。
街道に戻って進むと、右手筋の奥に、済岸寺の墓地から見えていた真言宗豊山派の千住院がある。
千手院の千手観音菩薩立像は、檜材の寄木造りで、全身に漆が塗られ、肉身部には金箔が貼られた像で、室町時代の製作と言われている。
境内には稲荷社・弘法堂のほか、庚申塚碑・宝篋印塔・如意輪観音などの石造物がある。
街道にも戻り、次の右手筋を40~50mほど進むと、左手に真言宗豊山派の阿弥陀院がある。
阿弥陀院の創建年代等は不詳であるが、江戸時代から水路脇に建っていたといわれる。
境内には、元禄7年(1694)の十九夜塔・嘉永6年(1853)の十九夜塔・延享4年(1747)と思われる六地蔵尊などの石造物がある。

築地川跡 妙顕寺 JR土浦駅
阿弥陀院から街道に戻ると、正面に築地川遊歩道と刻まれた石柱が建っている。
ここはかつて土浦城の北側の堀跡で、築地川が阿弥陀院前に流れていたが、現在、暗渠となっている。、
築地川遊歩道の奥に日蓮宗の妙顕寺があるが、妙顕寺の創建年代等は不詳である。
今回はここで終了し、最寄りのJR土浦駅まで帰路に就いた。
JR土浦駅は、明治28年(1895)に日本鉄道土浦線の駅として開業した。
駅の東側には、日本第2位の面積をもつ霞ヶ浦が広がっている。

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