二十三夜堂の石仏

御堂に掛かる二十三夜の扁額

二十三夜堂

 府中松平家は、初代水戸藩主徳川頼房の5男頼隆を祖とする。元禄13年(1700)頼隆は、幕府から陸奥国岩瀬郡長沼など18ヶ村、常陸国新治郡府中など19ヶ村併せて2万石を与えられ、「御連枝」と呼ばれる水戸徳川家の分家4藩(高松・守山・宍戸・府中)の一つとなった。府中松平家は本家と同じく定府制であり、上屋敷は江戸小石川にあった。代々播磨守を世襲し、10代頼策のとき明治維新を迎えた。
 歴代藩主の墓地は小石川宗慶寺にあったが、大正15年(1926)照光寺に移した。

◇大掾氏との関わり
 第14代平高幹(入道浄永)の開基である。約200年後、第12世良夢上人のとき、佐竹氏の攻撃を受け大掾氏とともに滅亡の運命をたどったが、その後再建される。現在の寺紋は松平家の三葉葵だが、以前は平氏の菩提寺に因んで九曜星であった。

◇エピソード~足利将軍からの一字拝領
 鎌倉時代が終わり、混乱の南北朝時代(1336-92)を迎え、世は戦乱の様相を見せ始める。第14代平高幹は、子の詮国とともに、元弘3年(1333)5月、新田義貞の軍に従い鎌倉を攻め、鎌倉幕府滅亡に大きな功績をあげた。その後、数々の攻防戦を重ね、高幹は小田氏との対立などにより南朝方から北朝方へと転じる。足利有利という戦局の読みもあったかと思われるが、結果として激動の南北朝時代を生き抜いたのである。また、高幹・詮国・満幹は、足利将軍からの一字拝領であると考えられることから、足利将軍家との強い絆が感じられる。
   (石岡市教育委員会)

常陸国府中藩主松平家墓所

聖観世音菩薩

松平家解説

照光寺本堂

本堂に掛かる照光寺の扁額

鐘楼

照光寺解説

照光寺山門

山門に掛かる雷電山の扁額

 照光寺は、常陸大掾高幹(浄永)を開基とし、良善上人(下野国円通寺開山良栄上人の高弟)を開山として、応安7年(1374)鹿の子の地に創建されたと伝えられる。第12世良夢上人のとき、大掾氏が佐竹義宣のために滅ぼされ、寺院は兵火にあって焼失した。その後、佐竹義宣の叔父佐竹左衛門尉は、円通寺より称往上人を招き、第13世として寺の再興をはかり、鹿の子よりこの地に移した。
 敷地はもと府中六名家(金丸・弓削・税所・香丸・中宮部・健児所)の一つ、香丸氏の屋敷跡と言われている。