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旧水戸街道   (石岡~奥谷


平成30年5月15日(火)    ☀    石岡~奥谷    18.0㎞
ここ数日、真夏のような気温となっているが、今回は石岡から水戸までの30㎞を余裕をもって2日間で歩く予定である。石岡までは始発電車を乗り継いで、午前7時14分に到着することが出来た。石岡から水戸までの中間あたりで宿を探したが、地図に表記されている旅館は、既に営業をしておらず、国道6号線のビジネスホテルを利用するしか方法がない。奥谷から一日数本の関東鉄道バスを使って6㎞ほど戻って宿を確保した。石岡から先は竹原宿、片倉宿、木幡宿と続く。

跨線橋泉橋 道標 石岡一里塚跡 旧道口
石岡駅西口から北に進んで、JR常磐線の跨線橋泉橋に出て、街道歩きのスタートである。
泉橋は、平成14年7月竣工で、欄干に水戸街道・杉並木などの解説が貼られている。
跨線橋泉橋を渡って先に進むと、右手の小林工務店の角に道標が建っている。
道標には、「是よりきびさけいなり道」 「大正10年(1921)6月6日」 と刻まれており、ここから500mほど東にある 「木比提稲荷神社」 への道標である。木比提稲荷神社の創建年代は不詳であるが、祭神は宇迦魂命で、府中大掾氏以来、領主・地頭の祈願所と伝えられている。
道標から150~160mほど先に、石岡の一里塚跡があり、街道の両側に塚が残っている。
近年まで推定樹齢400年の榎が立っていたが、平成14年7月の台風の影響で倒木してしまった。現在、二代目の榎が植えられている。
ここは江戸日本橋から23里目、千住宿から21里目の一里塚跡である。
行里川交差点を過ぎると、左手に県道52号線から分岐する旧道口がある。
旧道に入ると二車線道路ではあるが、車の往来はほぼ無い。

鷺の宮神社 不動堂 長屋門 道標
旧道に入って間もなく、左手段上に鷺の宮神社がある。
石段を上がって鳥居をくぐると、右手に行里川公民館があり、その奥に鷺の宮神社社殿がある。鷺の宮神社の創建年代は不詳であるが、
境内には大正4年(1915)の道祖神・御大典記念碑などがある。
街道に戻ると50mほど先の左手に 「歴史の里いしおか」 と記された標柱があり、その奥に不動堂がある。
不動堂の創建年代等は不詳であるが、不動堂には石岡市指定文化財の木造不動明王坐像が安置されている。
不動堂から程なく左手に長屋門と塀に囲まれた立派な旧家があり、旧街道の面影を偲ばせている。 長屋門を構えた旧家の右手筋角に道標が建っており、正面に 「右竹原ヲ経テ水戸二至ル」 「左石岡ヲ経テ土浦二至ル」、左面は良く分からないが 「笠間街道」 と刻まれているようである。

郡橋 急坂 馬頭観世音 六地蔵尊
先に進んで行里川北交差点で県道52号線を渡ると、その先に園部川に架かる昭和47年3月竣功の郡橋(こおりはし)がある。
この園部川を境に、石岡市から小美玉市へ入っていく。
先に進むと急坂があり、坂上に小美玉市の集落が続いている。小美玉市は、平成18年に小川町、美野里町、玉里町が合併してできた市である。 旧美野里町の集落を進んでいくと、右手段上に大正5年(1916)、竹原運送組合建立の馬頭観世音碑が建っている。 直ぐ先のT字路信号交差点の左手に標柱が建っており、「六地蔵尊」 「天正年間、大掾・佐竹氏の合戦・戦没者供養碑」 と記されている。
標柱の脇に文政12年(1829)の三界万霊塔と刻まれた地蔵尊・正徳6年(1716)の如意輪観音・寛政5年(1793)の墓碑などの石造物が並んでいる。

道標 佐久氏碑場 竹原神社 椿山稲荷神社
T字路信号交差点の直ぐ先、右手筋に明和7年(1770)の道標が建っている。
道標には 「従是かうけん天皇宮へ二町」 と刻まれ、ここから南へ200mほど行ったところにある 「孝謙天皇宮」 を指している。
孝謙天皇宮の詳細は不明であるが、奈良時代に朝廷で勃発した宇佐八幡神託事件に関係する弓削道鏡が造ったと言われている。
道標の先で花野井川に架かる小さな竹原橋を渡り、その先の坂道にさしかかる右手の林の前に佐久氏碑場がある。
佐久氏の詳細は不明であるが、墓碑のほかに大乗妙典供養塔・金剛般若経壹千部塔などが建っている。
佐久氏碑場の裏山に竹原神社がある。竹原神社には次のような創建伝説がある。
正保2年(11645)に園部川上流の旧大谷村を中心に疫病が流行し、その原因が大谷村の牛頭天王が人を食うからだ、という噂が広まり、大谷村の人々が牛頭天王の御神体である金幣を園部川に流した。
その御神体が流れ着いた竹原村では、神の怒りを恐れ、金幣を拾い上げ祠を建ててお祀りしたという。
竹原宿の町並みは、特に街道らしさも残っておらず、先に進んで竹原交差点で国道6号線に突き当たる。街道は竹原交差点を左折していくが、国道6号線を渡って150mほど東南に進むと、椿山稲荷神社がある。椿山稲荷神社は、永禄2年(1559)、竹原城主・竹原四郎義国が城の鬼門に当たる椿山に守護神として祀ったのが始まりと言われる。境内には、奈良時代の高僧である道鏡を祀る祠がある。

国道6号線 日光神社 石碑 旧家
竹原交差点に戻って歩道橋から街道を見ると、北に向かって真直ぐな道が延びている。
この先は、しばらくの間、国道6号線を進むことになる。
先に進んで、竹原下郷信号の先の右手筋を東に入っていくと、日光神社がある。
日光神社の創建年代等は不詳であるが、社殿は玉垣に囲まれた中にあり、境内には子供抱いた聖観音菩薩(子安観音)が祀られている。
街道に戻って進み、右手の理容トップを過ぎた辺りに石碑が建っているが、碑面は削られたのか文字などは全く分からない。 石碑の先左手に大谷石で造られた塀・石藏の建つ旧家がある。

地蔵菩薩 大貫先生碑 交通安全地蔵尊 観音祠
中野谷信号を過ぎて、自動車販売店ユアーズの右手筋入口に地蔵祠がある。
左から馬頭観世音・地蔵増菩薩・安政2年(1855)の道標を兼ねた地蔵菩薩であり、祠の近くに小さな道標もある。
地蔵菩薩から150mほど先の左手に、北辰一刀流故大貫先生政成之碑が建っている。 中野谷中央信号交差点を越えて、東京から86㎞ポストを過ぎると、右手の美野里ロードパークの入口に、交通安全地蔵尊が建っている。 美野里ロードパークから程なく、大曲三叉路の左手にある勇ちゃん食堂の前に観音祠がある。
祠には、大正3年(1914)の女人講中と刻まれた観音菩薩(子安観音)が二基並んでいる。

観音祠 桜並木 旧道口 子安神社
大曲三叉路から150~160mほど先の左手筋角に祠があり、子供を抱いた観世音菩薩(子安観音)が安置されている。 観音祠の先から車道と分離された歩道脇に桜並木が続いている。 桜並木の歩道を進んでいくと、自然と左手の旧道に入っていく。ここから国道6号線と分かれ、堅倉宿へ入っていく。
堅倉宿は、江戸時代の史料によると脇本陣と問屋場が各1軒、角屋・桝村屋・梅屋・長島屋・枡屋・巴屋・滝田屋・新富屋・升野屋・扇屋の10軒の旅籠があったという。
堅倉宿に入って間もなく、右手に子安神社がある。子安神社の創建年代等は不詳であるが、玉垣に囲まれた拝殿の中に、小さな子安神社本殿が祀られている。

加藤家復旧門 旅籠角屋跡 貴布禰神社 水田
先に進むと、右に直角に曲がる枡形道となり、程なく左手に加藤家復旧門がある。
加藤家は名主を務め、元治元年(1864)に天狗党の焼打ちに遭って全焼している。唯一焼け残った門柱二本を使って復元されている。
加藤家の向かいにも立派な門を構えた旧家がある。
先に進んだ十字路の左角に旅籠角屋跡がある。現在は 「旅館かと屋」 となっているが、この建物での営業はしておらず、南西へ150mほどいった国道6号線沿いに建つ新館で営業している。
街道は枡形道となっており、ここを左折していく。
旅籠角屋跡を左折せず、右折して国道6号線に出ると貴布禰神社がある。
貴布禰神社は、長元元年(1028)に京都鞍馬の貴船神社より高龗神を分霊してお祀りし、平成7年に近くにあった弘安年間(1278-88)創建の金刀比羅神社を合祀した。境内には安政3年(1856)・大正5年(1916)の子安観音のほか、正徳5年(1715)の馬頭観音などがある。
街道に戻って、旅籠角屋跡を左折して行くと、左手に田植えが終わったばかりの水田が広がっている。

巴橋 岩船神社 二十三夜塔 小岩戸の街道
先に進むと巴川に架かる巴橋がある。
巴川は、岩間町愛宕山山根下池に源を発し、笠間市・小美玉市を経て、下流の鉾田市から北浦に注ぐ一級河川である。江戸時代には舟運も行われ、下流の鉾田河岸は水戸方面から江戸への物資輸送の役割を担っていた。
巴橋を渡ると堅倉から小岩戸へ入っていく。
巴橋を渡って直ぐ右手の筋を入ると、左手段上に岩船神社がある。
岩船神社は永正元年(1504)10月、村内18戸協議の上岩船村(城里町岩船)の岩船神社より分霊を受けて祀ったことに始まるという。その後、明和2年(1765)建替・鳥居建立を経て、今日に至っている。境内には推定樹齢500年のケヤキ、推定樹齢300年の杉があり、いずれも枯死してしまったが、雨引観音・弘法大師像などの石造物がある。
街道に戻るとその先は坂道となり、美野里町農協堅倉支所を過ぎると、右手の花壇の中に文政5年(1822)の二十三夜供養塔が建っている。 小岩戸の集落は、まばらに家屋が並び、畑や森林が直ぐ近くにある。

道祖神 馬頭観音・子安観音 二十三夜塔 石船神社
左手の林に延びる筋脇に男女双体道祖神が建っている。
この筋の左手の林には覆屋があり、馬頭観音などの石造物が3基安置されている。
先に進み、国道6号線を小岩戸交差点で渡り、そこから300mほど進んだ左手筋角に覆屋があり、元文5年(1740)の馬頭観音など5基の石造物が安置されている。 馬頭観音などの覆屋の右側に、安政2年(1855)の二十三夜塔や道標を兼ねた道祖神などがある。 更に400mほどのどかな道を進むと、左手の小美玉市消防団第五分団建屋の隣に、石船神社がある。鳥居をくぐると正面に稲荷神社があり、脇に稲荷神社より小さな石船神社がある。
創建は稲荷神社の方が古いようであるが、詳細は不明である。境内には、如意輪観音が祀られた観音堂のほか、八坂大神・疱瘡大神・金刀比羅大神が祀られた石祠がある。

子安観音 山中橋 山中薬師堂 竹林
先に進んで街道がやや左にカーブすると、左手の中村自働機械美野里工場の手前に覆屋があり、安政2年(1855)の子安観音などが安置されている。 子安観音を過ぎると、程なく黒川に架かる山中橋がある。
黒川は笠間市に源を発し、下流で巴川に合流している。山中橋の上下流域は、田植えが終わったばかりの水田が広がっている。
山中橋を渡ると直ぐ右手の筋奥に、山中薬師堂がある。山中薬師堂の創建年代等は不詳であるが、建築様式は水戸吉田町の薬王院と類似しており、眼病に霊験があると言われ、眼病を患う人々の参詣者が多い。
また薬師堂には江戸時代末期の作と言われる仁王像があり、境内には元禄5年(1692)の釈迦如来像、正徳2年(1712)の如意輪観音などの石造物がある。
街道に戻るとやや上り坂の道となり、右手に竹林があり、土手からタケノコが伸びていた。

子安観音 愛宕神社 法円寺 廃屋
竹林の先で右手にクリ林、左手にジャガイモ畑を見て進むと、倉本自動車整備工場の手前に覆屋があり、大正5年(1916)の御即位記念と刻まれた子安観音が安置されている。 子安観音から程なく、左手に愛宕神社がある。愛宕神社の創建年代等は不詳であるが、御神体は本地仏勝軍地蔵尊で、後に火之迦具土命となり、明治より愛宕神社と称した。
境内には、文久2年(1862)の芭蕉句碑 「蝶の飛ぶばかり野中の日影かな」 のほか、不動明王尊・弁財天社・皇大神宮・八坂神社などの境内社がある。
街道に戻って県道181号線を越えると、直ぐ左手に天台宗の神明山法円寺がある。
法円寺の創建年代等は不詳であるが、本尊は木造阿弥陀如来坐像であり、境内には伝教大師(最澄)の 「忘己利他」 の教えの碑が建っている。
法円寺の先右手に更地になった場所があり、奥の方に残されたなまこ壁の廃屋がある。

旧家 聖徳大神碑 界田橋 青瀧大権現
更に進むと、右手に立派な塀を構えた旧家がある。 上野合郵便局を過ぎた右手筋に覆屋があり、道標を兼ねた聖徳大神碑・二十三夜塔・石仏などの石造物が安置されている。
覆屋の前には、木幡城跡の立て札があり、ここから1㎞ほど東へ進んで東関東自動車道を越えたところに木幡城跡がある。
更に500mほど先に進むと、寛政川に架かる昭和58年竣工の界田橋がある。
寛政川の上下流域は、水田地帯が続いている。
界田橋を渡ると、左手の林の高台に青瀧大権現がある。
青龍大権現の創建年代等は不詳であるが、鳥居脇に青龍大権現碑があり、青龍は 「清龍」 かもしれない。清瀧大権現であれば、真言宗醍醐派総本山醍醐寺の守護女神である。参道石段を上り詰めると、小さな石祠が建っている。

国道6号線 千貫桜碑 奥谷跨道橋 木幡北山埴輪製作遺跡
街道に戻って坂道を上り詰めると、国道6号線に合流する。
ここから先は、しばらく車の往来の激しい国道6号線を進んで行くことになる。
国道6号線に合流して200mほど進むと、左手に千貫桜碑が建っている。
かつて水戸街道木幡宿から水戸方面へ桜並木が続き、あるとき水戸光圀公がこの桜を観に訪れ、「春風も 心して吹け 散るは憂し 咲かぬはつらし 花の木のもと」 と詠んだという。
千貫桜の名前は、「この桜の美しさは千貫にも替え難い」 と言われたことに由来するという。
先に進んで東関東自動車道を奥谷跨道橋で越えていく。 奥谷跨道橋を渡ると、直ぐ右手に木幡北山埴輪製作遺跡がある。
ここは昭和28年(1953)開墾作業中に人物埴輪、円筒埴輪、馬の埴輪などが出土し、埴輪製作遺跡として知られるようになった。その後、数次の発掘作業が行われ、平成4年(1992)に国の指定遺跡になった。

旧道口 木幡城跡看板 御霊神社 高橋
しばらく進み、右手の奥谷グラウンドの辺りから進入禁止の標識が建っている道へ入っていく。 先の変則5差路の角に木幡城跡2㎞の看板が建っている。
木幡城は、寛政川に面した台地の東側に築かれた城であるが、築城年代等は不詳である。
大掾氏の子孫が、木幡姓を名乗って城主になったという伝承もあるが、定かではない。
先に進んで奥谷坂上信号を過ぎると、左手に御霊神社がある。
御霊神社は、御霊姫命を祭神とし、古くから里人に信仰され、長い間産土神として祀られてきた。その後、万治年間(1658-61)の改修等による変遷を経て今日に至っている。
境内には香取神社・御作神社・愛宕神社・稲荷神社などの境内社がある。
やや下りの道を進み、奥谷交差点を越えると涸沼川(ひぬまがわ)に架かる高橋がある。
涸沼川は、笠間市の国見山に源を発し、下流の涸沼に流れ込み、涸沼流出後は北東に流れて、那珂川に合流している。
本日はここで終了し、奥谷交差点前から関鉄バスで国道6号線を石岡方面に戻り、ビジネスホテルに宿泊する。

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