正岡子規は、第一高等中学校在学中の明治22年(1889)春、水戸の学友を訪ねて徒歩で旅行し「水戸紀行」を著し、以後二万弱の俳句を詠んだ。
この句は、二日目の宿を石岡の萬屋にとり、その折に詠まれたものである。
拝殿に掛かる粟嶋神社の扁額
正岡子規句碑
粟嶋神社拝殿
二日路は 筑波にそふて 日ぞ長き
金比羅神社
祭神は大物主神。大物主神は、山と森の木という自然の生命を御神体として鎮座することを特徴とすることを日本最古の歴史を有する神である。当神社の古称である「森」「森木」「守木」は、神社・神木・神垣の意味があり、古来から由緒ある神域であったことを伝えている。また常陸大掾氏一族、府中藩主松平家によって手厚い庇護を受けるなど多大な崇敬を寄せられていた。
文政10年(1828)、讃岐国象頭山(香川県琴平町)の金毘羅大権現(金刀比羅宮)の御分霊を勧請して、「こんぴら信仰」のよりどころとして多くの人々の参詣を集めている。
◇大掾氏との関わり
当神社は古く「森」あるいは「森の杜」といい、桓武天皇の曽孫平高望王が常陸大掾という官職を得て国府に着任して以来、常陸大掾平氏ゆかりの神社となった。鎌倉時代の古記録である「総社文書」には平氏の歴代の子女が祭主となって神役に勤仕していたとある。
◇エピソード~大掾氏が守る社
ここ金比羅神社の地は古くから「森の地」といわれ、森木殿があり、森木寺や八大寺という寺院が付属していた。しかし天正10年(1590)、戦乱と兵火の中に巻き込まれ、森は壊滅し、長年にわたり当地を支配した常陸平氏も滅亡した。その後、平氏の後裔である別当八大院によって神社が復興され、大掾氏族の信仰を守り伝えている。
(石岡市教育委員会)
神厩舎
神厩舎の中の御神馬
境内社
金比羅神社解説
金比羅神社拝殿
手水舎
拝殿に掛かる金比羅神社の扁額