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水戸城跡・偕楽園


平成30年3月15日(木)    ☀    水戸駅~水戸城跡~弘道館~千波湖~偕楽園~水戸駅    8.0㎞
今週は天気が良くて3/11(日)から3/13(火)にかけて、残っていた旧東海道を歩き終え、引き続き本日まで雨の心配がなさそうなので、今後の旧水戸街道を歩くに先立って、梅が満開を迎えている水戸偕楽園を巡ってみようと思い、上野発7:00のいわき1号に乗り、水戸駅に8:10に到着した。

水戸黄門像 義公祠堂 柵町坂下門 旧水戸城薬医門
JR水戸駅の北口には、水戸黄門・助さん・格さんの三人の旅姿の像が建っている。 水戸駅前から国道51号線を北東に200mほど進むと、右手に義公祠堂(水戸黄門神社)がある。徳川光圀は、寛永5年(1628)に家臣三木仁兵衛之次の屋敷で生まれ、4歳まで三木家の子としてここで養育された。
この生誕地には光圀公を祀る義公祠堂が建てられ、水戸黄門神社とも呼ばれている。
義公堂から北側にある水戸第三高等学校への坂道を上っていくと、校門の前に柵町坂下門が復元されている。
柵町坂下門の傍らには、徳川頼房公像が建っている。
柵町坂下門の先で右手の水郡線の跨線橋を渡った先に、県立水戸第一高等学校があり、入口に旧水戸城薬医門が建っている。
この城門jは、旧水戸城の現存する唯一つの建造物で、構造や技法からみて、安土・桃山時代の建立と推定されている。城門のあった位置は諸説あるが、城門の風格からみて橋詰御門、すなわち本丸の表門と考えられている。

杉山門 二中見晴らし台 水戸城二の丸跡 スダジイ
水郡線の跨線橋を戻って北西に進むと、右手に杉山門がある。
杉山門は、二の丸の北口にあたり、門の内側は敵の侵入を遅らせるため、土塁で枡形が造られていたという。杉山門の前右手は、寛永2年(1625)に初代藩主徳川頼房が行った水戸城大改修により整備された杉山坂がある。
杉山坂の隣に水戸二中見晴らし台がある。
かつて金網であったという水戸市立第二中学校の外壁は、城郭風の造りで門扉が設けられており、午前9時から午後4時30分まで中に入ることが出来る。
中に入ると見晴らし台の途中に、天覧記恩之碑が建っている。
二中見晴らし台入口の向いに、水戸城二の丸跡があり、解説には概ね次のように記されている。
水戸城二の丸は、藩の政務の中心施設である御殿が置かれた。初代藩主徳川頼房による寛永の水戸城大整備(1625-38)にあわせて建設された。御殿の絵図面をみると、およそ50数間四方の平屋建てで、水戸城最大の建造物であった。
二中見晴らし台入口の左隣に、水戸城跡の大シイが聳えている。
この大シイは、戦国時代から自生していたと伝えられる推定樹齢400年のスダジイで、水戸市指定天延記念物に指定されている。

水戸城三階櫓跡 旧水戸彰考館跡 茨城師範学校跡 大手橋
水戸城二の丸跡の先に水戸城三階櫓跡があり、解説には概ね次のように記されている。
三階櫓は、水戸藩の初代藩主である徳川頼房が、寛永年間に水戸城の大整備を行った際に、二の丸の南崖近くに建てたもので、水戸城にとっては天守閣に匹敵する建造物である。明和元年(1764)12月の火災で全焼したが、再建時に屋根を瓦葺とし、鯱を飾った。外観は三重だが内部は五階建てというこの美しい建造物を、水戸の人々は三階櫓と呼んだ。
先に進むと右手の水戸市立第二中学校の門の前に、旧水戸彰考館跡碑が建っており、その傍らには、大日本史編纂之地碑が建っている。彰考館は、江戸時代に水戸藩が大日本史を編纂するために置いた修史局があった場所である。 旧水戸彰考館跡の向いに、茨城師範学校跡がある。
明治7年(1874)、小学校の教員養成のため、水戸市柵町に拡充師範学校が創立された。その後、校舎は水戸市滝岡町に移り、さらに明治21年(1888)、ここ水戸城に移転した。
茨城師範学校跡から土塁を越えたところに、水戸城大手橋がある。
現在、大手門の復元工事が行われており、平成31年9月のいきいき茨城ゆめ国体開催前までに完成させる予定になっている。

弘道館 孔子廟 学生警鐘 弘道館鹿島神社
大手橋の渡り詰め(北西)に弘道館がある。
水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)が、天保初年から内外の危機打開のため、全国に率先して始めた改革の眼玉としたものは、藩校弘道館における人材の育成であった。本校は天保12年(1841)から活動を開始したが、教育の趣旨目標を示した弘道館記や画期的な教育制度は、水戸藩士ばかりでなく全国の志士に大きな影響を与えた。
弘道館の裏手(北側)に孔子廟がある。
孔子の教えは唐虞三代の道を折衷した最も中正を得た道徳なので、弘道館はその教義を採用するとともに、その廟を安政4年(1857)館構内に建立し、孔子神位を廟中に安置してその霊を祭った。廟の構造は、大成殿を模した総欅瓦葺き、入母屋造り、平屋建ての建物であったが、昭和20年8月の戦災で正門と左右の土塀を残して焼失し、昭和45年11月に旧態に模して再建した。
孔子廟の向いに、学生警鐘がある。
この鐘は、徳川斉昭(烈公)自鋳のものと云われ、弘道館内の学生に時を告げたり、事あるときの知らせに用いたもので、一般の寺院にある梵鐘とは趣を異にした独創的な作りになっている。鐘の内面には、烈公自筆の鋳造由来が、また表面には、自詠の和歌が刻まれている。
物学布人乃為仁登佐也加爾毛暁告流鐘能古慧鐘
(ものまなぶひとのためにとさやかにもあかつきつぐるかねのこえかな)
孔子廟の南側に、弘道館鹿島神社がある。
水戸藩第9代藩主徳川斉昭公(烈公)は、天保9年(1838)水戸学大道の象徴たる藩校弘道館の仮開館に際して、仁孝天皇の勅許を得て神殿を造営し、同11年(1800)9月、潮田巧蔵に命じて、構内に武甕槌大神を祀る意志を宣告した。
安政4年(1857)5月、常陸国一之宮鹿島神宮の御分霊を勧請し、創祀した。境内には、八角形の八卦堂・種梅記碑がある。

藤田東湖生誕の地 千波湖 偕楽園 好文亭
鹿島神社から裁判所前に出て、千波湖へ向かうべく、国道50号線の南町一丁目から南に向かうと、藤田東湖生誕の地がある。
藤田東湖は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)を助けて寛政改革に尽力し、弘道館の創設に大きな足跡を残した人物であり、西郷隆盛・橋本佐内に影響を与えた。ここには藤田東湖像のほかに、藤田東湖生誕の地碑・東湖産湯の井戸跡がある。
藤田東湖生誕の地から南に進んで、国道50号線を渡り、JR常磐線の梅香高架橋を渡って行くと、右手に千波湖とその脇を桜川が流れている。
桜川堤を進み、途中から千波湖畔の遊歩道を歩いてみた。
偕楽園は、金沢の兼六園・岡山の後楽園と共に日本三名園の一つに数えられる。水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)により、領民の休養の場として開園された。
偕楽園には約100種3000本の梅が植えられており、2月下旬から3月下旬にかけて梅まつりが開催されている。
好文亭は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)が詩歌・管弦の催しなどをして家中の人々と共に心身の休養を図るために、天保13年(1842)に建てたものである。好文亭の名前の由来は、晋の武帝の故事 「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」 により、梅の異名を 「好文木」 と言ったことから命名されたと言われている。
好文亭内からは、千波湖とその周辺の梅林などが一望できる。

吐玉泉 太郎杉 常盤神社 水戸光圀公像
好文亭の西側で中門をくぐった先に吐玉泉がある。この辺りは昔から湧水の多かったところで、徳川斉昭は偕楽園造成に当たり、地形の高低差を利用して集水し、造園上の景観を考量した白色の井筒を据えた湧水泉を設置した。この水は眼病に効くと言われ、好文亭の茶室の茶の湯にも使われた。
泉石は常陸太田市真弓山の大理石で、寒水石とも呼ばれ、現在の泉石は4代目で、昭和62年(1987)に更新したものである。
吐玉泉の近くに、推定樹齢800年の太郎杉の巨木がある。
かつて太郎杉の周囲には、杉の巨木が数本あり、大きい順に名前が付けられていた。
偕楽園の東に隣接して常盤神社がある。
常盤神社は、明治初年、徳川光圀公・徳川斉昭公の徳を慕う多くの人々により、偕楽園内に祠堂が建てられたもので、明治6年3月、明治天皇の勅旨をもって 「常盤神社」 の社号を賜り、同年10月にそれぞれの祭神の神号が勅旨により定められた。
千波湖の西側の広場に、昭和59年に完成した水戸光圀公像が建っている。
ここから千波湖の南湖畔を通って水戸駅へ向かう。

東照宮
JR]水戸駅前の北側高台に東照宮がある。
東照宮は、水戸藩初代藩主徳川頼房により、元和7年(1621)徳川家康公を祀る神社として創建された。
旧社殿は国宝に指定されていたが、昭和20年の戦災で焼失し,、昭和37年に現社殿が造営された。境内には、徳川頼房が奉納した銅造燈籠、徳川光圀が造らせた常葉山時鐘、徳川斉昭考案の案神車(戦車)などがある。