天さかる ひなにはあれと さくら花 雲のうへまで さき匂はなん

西南の廊下

部屋から見える紅梅

文明夫人(徳川斉昭夫人)の歌碑

松延年は水戸藩の侍医で名は年彦蓉坪外史と号す。博学にして和漢の学に通じ書を市川米庵に学び能筆の名あり。

西南の縁側に掛かる 「游於藝」 の額

尊攘の幅 (松延年書)

弘道館西南面

弘道館正面

徳川慶喜向学の地碑

徳川斉昭(烈公)が論語の「子曰志於道掾於徳依於仁游於藝」からとって篆書(てんしょ)で書かれたもので、学問武芸にこりかたまらず、ゆうゆう楽しみながら勉強するの意。

正門

 幕政を朝廷に奉還して明治維新の端を開いた最後の将軍徳川慶喜は、水戸藩第9代藩主斉昭らの第7子として天保8年(1837)江戸の水戸藩邸で生まれた。その翌年から一橋家を相続する11歳までは水戸に移され、父の膝元で厳しい養育を受けた。殊に5歳の時この弘道館が開かれると、尊王攘夷の精神で学問武芸に励み、その才能を磨いたのであった。

 天保12年(1841)の弘道館創立時に建てられた正門である。本瓦葺き四脚門という建築様式で、屋根瓦には葵の紋がある。藩主の来館や諸儀式を行うときにのみ開門した。
 門柱や扉などにみられる傷跡は、明治元年(1868)に起きた弘道館の戦いと呼ばれる藩内抗争の銃撃戦でできた弾痕である。
 正門及び正門南10m、北11.4mの付近は、重要文化財に指定されている。