この碑は、徳川斉昭(烈公)が、天保4年(1833)就藩したとき、領内に梅が少ないことを知り、江戸屋敷の梅の実を集め、水戸に送って、育苗し、偕楽園や弘道館、さらに領民の家々まで植えさせた由来を記してあります。また梅は花を観賞するばかりでなく、その実は、戦いのときの副食として役立つので蓄えておくようにといった梅の効用についても述べてあります。
 碑文は、烈公の自撰で、碑は天保12年(1841)に建てられたものです。

 この八角の堂は、各面の上欄に八卦(易)の算木が取り付けられているので、八卦堂といいます。現在の堂は、創建時のものが、昭和20年8月の戦災で焼失したため、昭和28年に再建したもので、堂の中には弘道館記碑が納められています。
 この碑文は徳川斉昭(烈公)の撰文による書で、藩校である弘道館の教育の基本を示したものです。
 碑は、弘道館の建設と同時に建てられ、高さ3.1m、幅1.9m、厚さ0.55mで、常陸太田産の寒水石を用いています。

種梅記碑解説

八卦堂

八卦堂解説

 水戸藩第9代藩主徳川斉昭公(烈公)は、天保9年(1838)水戸学大道の象徴たる藩校弘道館の仮開館に際して、仁孝天皇の勅許を得て神殿を造営し、同11年(1800)9月、潮田巧蔵に命じて、構内に武甕槌大神を祀る意志を宣告した。「弘道館記」を真弓産の大理石に刻らしめ、安政4年(1857)5月9日、常陸国一之宮鹿島神宮の御分霊を遷祀し、更に斉昭公が自ら鍛えた「葵くずし八雲鍛え」の太刀を奉納して御神体に擬え弘道館に魂を入れて本開館となりました。
 明治4年(1871)1月郷社に定められ、水戸城東26ヶ町並びに茨城郡の内木幡、橋場美新田、先後新田、古沼、下座、下雨谷、世楽、佐才新田、上吉影、以上9ヶ村を氏子に附けられ、明治15年(1882)1月28日県社に列しました。
 武甕槌大神は日本国建国の祖と仰がれ、孔子廟と共に文武兼備の貴神と崇敬され、昭憲皇太后や昭和天皇が御親拝遊ばされました。
 御社殿は戦災で烏有に帰し、戦後しばらくは仮殿でしたが、昭和49年第61回伊勢神宮式年遷宮の折、皇大神宮別宮の「風日美析宮」の旧殿一式が特別譲与され、昭和50年5月9日伊勢皇大神宮の別宮一社のすべてと移築した全国唯一の荘厳な神明造りの御社殿が完成し、盛大な例大祭と竣工奉告祭が斎行されました。なお本神社の神輿は北関東最大級です。

拝殿に掛かる鹿島神社の扁額

鹿島神社拝殿

種梅記碑

鹿島神社本殿

弘道館鹿島神社由緒