文化9年(1812)10月那須野に一隊の兵士が刀を荷い槍をうち立て行進する蜃気楼が現れた。 たまたまここを通った甲州の高津義克という行脚僧が目撃し、その光景を記した。それが蒲慮碑原文である。のちに石に刻んで建立したのがこの碑である。
土地の者は蜃気楼のことを 「ホロ」 と呼んでいた。当時親園地区は八木沢村と呼ばれ、代官・山口鉄五郎の支配下にあり、代官の出張陣屋が設けられていた。
山口鉄五郎は水路を開消し新田を開発するなど農村の振興につとめ領民から深く親しまれていた。 人見伝蔵は著者 「那須野蜃気楼・蒲慮碑考」 の中で、中国の書
「中庸」 の中には 「政治は蒲や慮のようなもの」 という一文があり、 碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲慮に結び付けたものとしている。
原文は奉書に隷書体で一行13字、13行に書かれている。この碑文には楷書で本文159文字が刻されている。
昭和36年3月22日指定
文化9年(1812)10月の蒲蘆碑(表面)
蒲蘆碑裏面
蒲蘆碑解説