奥の細道 元禄2年
 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老を迎ふる者は、日日旅にして旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、

那須野  芭蕉
 那須の黒羽といふ所に知る人あれば、これより野越にかかりて、直道をゆかんとす。 遥かに一村を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜をかりて、明くればまた野中を行く。 そこに野飼ひの馬あり。草刈るをのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬにはあらず。 「いかがすべきや。されどもこの野は縦横にわかれて、うひうひしき旅人の道踏みたがへん、あやしう侍れば、この馬のとどまる所にて馬を返し給へ。」 と貸し侍りぬ。 小さき者ふたり、馬の跡したひて走る。独りは小姫にて、名をかさねといふ。 聞なれぬ名のやさしかりければ、 かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良  やがて人里に至れば、あたひを鞍つぼに結び付けて、馬を返しぬ。
     (昭和53年5月)

奥の細道

旧奥州道中大田原宿碑

台座 「江戸」

台座 「白川」

台座 「不」 明治の水準点記号

 町人文化の華が咲き誇った文化文政の頃 ここ大田原宿は江戸の文化を奥州へ伝える旅人とみちのくの産物を江戸へ送る商人の行き交う宿場として栄えた。たまたま文政2年(1819)10月に 「町内安全」 の祈りをこめて建立されたのが金燈籠であり、もの堅い人達によって欠かさず点され、旅人や町人の目安となり心の安らぎとなった常夜燈でえもあった。
 この燈籠は鹿沼の技工が鋳た由であり、本体基部には當時の町内有志及び世話人38氏が鋳名されている貴重な文化財であったが、太平洋戦争末期に供出し、その姿を消したのは残念なことであった。
 その後、昭和30年7月、町内有志により三斗小屋宿から金燈籠を譲りうけ、百人講の盡力により復元されたことは、先人の意を継ぐ自然の情として高く評価されるところであった。
 然しながら時代の推移に伴う車の激増により、金燈籠はその安住の地を失い、十字路の片隅に放置状態にあったのを昭和53年8月に黒磯市へ返還になったものである。
 折しも金燈籠建設委員会が結成され、金燈籠再建の計画を発表したところ、上町内有志を中心とする各位の深い理解によって再建できたのは何よりも幸いなことである。
 ここに「上町 江戸 白川」 と刻まれた台石に往時を偲び、祖先の息吹きを感じとりながら、建設用地提供者並びに別記協力者一同に感謝すると共に、上町 「金燈籠」 が末永く伝えられることを望むものである。

金燈籠

金燈籠解説

台座 「上町」