旧木澤藩士加勢友助翁は、天保の大凶荒に際して餓死途に盈いるを悲しみ、大阪の浅野定次郎、阿波の山口又兵衛と議り、広漢開墾してこの哀愁を祓はんと欲し、大田原公に請願す。天保12年12月縦250町、横100町開発の許可を得、同13年春直ちにその開墾に着手せり。嘉永に至り浅野・山口両氏逝去して資金会社絶したるも、翁よく辛苦に堪へて事業を継続し遂に浅野の一部落を創立するにいたる。これ実に那須野が原の開墾の嗃天たり。養子信四郎亦よく翁の意を継ぎて専心開墾の業に従ひ以ってこれが今日あるを至せり。養孫熊次郎嘗て翁の記念碑を建立せんと図りしも果たさず。依って茲に近親者相謀りその責を果さんとす。近親者一同建之

安政6年(1859)に石燈籠

浅野公民館

鳥居

手水石

鳥居に掛かる八幡神社の扁額

稲荷神社

那須野が原開墾率先者・加勢友助翁記念碑

八幡神社拝殿

稲荷神社の両部鳥居

拝殿に掛かる八幡宮の扁額