第12代景行天皇の御戌宇庚40年(西暦111年)東夷多く叛きて騒動しければ、第2皇子日本武尊、左右に吉備武彦命、大伴武日蓮を相副られ三河国に御下向、当地を通御在らせられ給ひ、遥かに山上を見給ふに、紅白の雲棚引き、恰も錦の御旗の如くなりしかば、尊、御感の余り峰に登らせられ、天照皇大神を遥拝して戦捷を祈らせ給ふ。
のち、天武天皇大宝元年丑(701)僧行基、諸国を行脚しこの地に来り、日本武尊の霊場と開き、其のところの杉を切り、観音の像を刻み、一堂を建立して此のところに安置し、皇大神の本地仏となせり。その後弘法大師来りて堂中に37日間の密法を修し、国家安泰を祈願したと伝ふ。
 南朝後亀山天皇の元中2年(北朝後小松天皇の至徳2年(1385))足利将軍義満の時、龍芸和尚、二村山法蔵寺と号し、堂中に祭祀せる皇大神を今の地に遷し奉り、村民の産土神として社殿を建立し崇敬せしむ事、今より600有余年前のことなり。
 当時、本宿は戸数4戸なりき、元四ッ家といふ地、即ち是なりといふ。
 その後、大正9年(1920)村社に列せられ、神饌幣帛料供進の神社に指定せられたるも、昭和21年3月、神社行政改革が実施され、昭和28年に宗教法人 「神明社」 となりて今日に至る。

役行者

神明神社

神明神社由緒

拝殿内に掛かる神明社の扁額

吽形の狛犬

神明社拝殿

阿形の狛犬

明治40年(1907)の一の鳥居

青面金剛の庚申塔

幣殿 ・ 本殿

小丘の上の石造物

境内社

拝殿内部

手水舎

小丘を下った先に二の鳥居が見える

二の鳥居