本宿碑

本宿村説明

 本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺の門前を中心に町並が形成された。
 鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り、鉢池から宮路山中へと続いていた。
 近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する村としての役割を果たしたといえる。
  享和2年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数121軒、村内往還道19丁余、立場茶屋2か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ谷)があり、 旅人の休息の場として繁盛をきわめた。
  東海道中膝栗毛に 「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」 とある。 本宿は古くから麻縄(召縄)、麻袋、麻紐などの麻細工が盛んであった。 また、家康公が食したといわれる当地独特の法蔵寺団子があり、その他、草鞋、ひさごなどが土地の名物として売られ、街道筋の評判となった。 往還南に大宝元年(701)僧行基開創と伝えられる古刹法蔵寺がある。 歴代の松平氏をはじめ、家康公幼少の頃のゆかりの寺として近世を通して下馬の寺であり、往来する諸大名をはじめ旅人の参詣があとを絶たなかったという。 その他、旗本柴田氏本宿陣屋、尾張藩七里役所、高札場、一里塚、常夜燈などが往還筋に設置されていた。
 慶応4年(1868)に柴田勝誠が新政府に提出した高取調帳には、村高536石余(柴田知行所457石余、法蔵寺領79石余)と報告している。
 明治7年(1874)の額田郡誌には135戸、550人と記されている。
 ここ四ツ谷には立場茶屋があり、幕末期には旅籠屋2、茶屋7、当時の記録から繁盛の様子をうかがうことができる。 この地から二本の枝道が南北にわかれている。 南は鉢地村道、北は衣文山道である。 鉢地村道は、鉢地川に沿って南へ進み、山越えして西郡(現蒲郡)へ通じるおよそ2里ほどの山道をいう。 近世に入り三河湾と東海道を結ぶ唯一の生活道路となり、物資の交流に欠かせない道となった。 また、竹島弁財天詣での信仰の道でもあった。
 衣文山道は、往還より北の山中を越え上衣文村に通じる山道をいう。 衣文観音詣での参道として利用された。
  1994年9月 国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会