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大山街道   (青葉台~鶴間


平成30年11月26日(月)   ☀|☁    青葉台~鶴間    11.0㎞
本日は、いつも峠道を一緒に歩いてくれる友人と久しぶりに歩くこととなった。3日前から左肩に痛みがあったが、久しぶりの二人旅なので楽しみであり、いつものように新宿駅で待ち合わせして電車に乗り込んだ。本日は月曜日であり、電車は通勤客でかなり混んでいるため、背負っているザックを足元に置いて出発である。
東急田園都市線の青葉台駅に着くと、駅前には朝から柔らかい陽差しがあり、歩くにはちょうどいい気温である。

青葉台駅 旧道口 日本料理店青柿 大山街道標柱
青葉台駅は、昭和41年(1966)に開業した駅で、傾斜地に建設されたため、東側は斜面を切り崩し、西側は高架式になっている。 青葉台交差点の直ぐ先に厚木街道(国道号線)の高架があり、この手前右手に西に向かう筋がある。
ここは再勝橋付近を通り抜けた旧道が、ここに繋がっていた旧道口である。
先に進むとT字路に突き当たり、そこから旧道は消滅しているので、右に進み、左手一本目の筋を入り、緑の木立に囲まれた日本料理店青柿の前を迂回して行く。 日本料理店青柿の先でやや広い通りを西に進み、信号十字路を左折して、直ぐ右手筋に入ると、民家の前に大山街道標柱が建っている。

大山遠望 宝篋印塔 供養塔 恩田大橋
先に進むと下り坂(石塔坂)となり、正面に大山が遠望できる。
この辺りを旧道が抜けていたようで、この先左手にある墓所の宝篋印塔が旅人の目に触れ、この坂は、石塔坂と呼ばれるようになったと言われている。
正面に大山を見て坂道(石塔坂)を下ると、左手段上に墓所があり、この一角に宝篋印塔が建っている。
この宝篋印塔は、北条氏ゆかりの糟屋清印が父母の十三回忌供養に建てたもの云われ、もとは寿光院(廃寺)の墓地にあったものである。
宝篋印塔の前から厚木街道(国道246号線)に出る途中、右手に観音菩薩を刻んだ供養塔が建っている。
この供養塔は、文化5年(1808)の道標を兼ねたものであり、台座に 「下り大山道・上り江戸道」 と刻まれている。
供養塔の先で厚木街道(国道246号線)に突き当たり、その先は旧道が消滅しているため、迂回路として厚木街道を右折して進むと、恩田川に架かる恩田大橋がある。
恩田川は、東京都町田市本町田の滝ノ沢に源を発し、下流の神奈川県横浜市緑区青砥町と中山町の境辺りで鶴見川に合流している。

旧道口 JR横浜線 片町地蔵堂 長津田宿常夜燈
恩田川を渡って先に進むと、片町交差点のところから西に延びる旧道が復活する。
かつての大山街道は、供養塔の先で厚木街道(国道246号線)を横切って恩田川に向かい、恩田大橋の辺りで恩田川を渡って厚木街道の北側に出て、もう一度厚木街道を横切って、この片町信号交差点辺りを抜けて西に向かっていた。ここには、旧大山街道標柱が建っている。
旧道に入ると間もなく、JR横浜線が街道を横切っている。横浜線は、神奈川県横浜市の東神奈川駅と東京都八王子市の八王子駅を結ぶ鉄道路線である。
地元沿線では、「ハマ線」 と呼ばれている。
JR横浜線の高架をくぐってって、その先の坂道を登っていくと、逆Y字路の中央に片町地蔵堂がある。地蔵堂には、3体の地蔵菩薩が祀られており、この内一体の地蔵尊の台石に享保20年(1735)と刻まれている。
前掛けをしているため確認できなかっが、道標を兼ねた地蔵菩薩があるようである。
地蔵堂から150mほど進むと、左手に長津田宿常夜燈のほか、庚申塔・馬頭観音・弁財天などの石造物が並んでいる。
この辺りは長津田宿の江戸口に当たり、宿は江戸口から下宿・中宿・上宿に分けられ、天保9年(1838)の相州青山往還宿々控帳によると、久左衛門家が問屋を務めたという。江戸時代末期には、旅籠や商家などが50軒ほど並んでいたが、昭和28年(1953)の大火でその多くが焼失した。

長津田宿並み 大林寺 お七稲荷 大石神社
現在の長津田宿に往時の姿は見られないが、上宿に至るまで500mほどの直線の旧道が続いている。 先に進んで長津田駅南口入口交差点を左折すると、左手に曹洞宗の慈雲山大林寺がある。大林寺は、この地の領主岡野平兵衛房恒が開基で、清源院五世麟哲が開山となり創建した。山門は仁王門で仁王像と四天王が祀られ、境内には、長津田十景色の大林晩鐘・延命地蔵尊・嘉元元年(1303)の板碑のほか、墓地には旗本岡野家歴代の墓所がある。 大林寺の通りを挟んだ向かい(西側)の筋を入ると、左手のマンションの一角に福寿稲荷(お七稲荷)が建っている。この地の三代目領主・岡野房勝は、八百屋お七を吟味した中山勘解由と同職であり、お七処刑時に馬の手綱を持ったという。その後、菩提寺の大林寺に火災が続いたことなどから、この稲荷社を建立した言われている。 街道に戻って長津田駅南口入口交差点の先を進むと、右手の高台に大石神社がある。
大石神社の創建年代等は不詳であるが、大きな石を御神体として在原業平を祀り、神石は武蔵国と相模国の国境にあったが、百姓がその帰属を主帳して争いとなり、神意により武蔵国に鎮座したと言われている。大正12年(1923)5月に神明社・稲荷社を合祀した。

長津田宿常夜燈 八坂神社 長坂夜雨 横浜みどりの里
大石神社の右手の坂道の途中に長津田宿の上宿常夜燈が建っている。江戸口の下宿に解説があった二基のうちの一基である。
ここにも下宿と同じ解説があり、脇に常夜燈由来碑、地神尊碑が建っている。
大石神社の北側に八坂神社がある。
八坂神社の創建年代等は不詳であるが、鳥居の扁額には金刀比羅神社の文字も並列しており、境内には皇太子殿下御野立所之跡碑・日露戦役紀念碑・忠魂碑などが建っている。
ここは長津田十景の一つで、大正10年(1921)の陸軍大演習で、当時の皇太子殿(昭和天皇)が演習をご覧になった場所である。
街道に戻り大石神社参道先のY字路を右に進むと、長津田小学校の前を左に入る土道の旧道が残っている。
この入口に旧大山街道標柱と長津田十景⑧長坂夜雨(ながさかやう)案内が建っており、踏み込むと旧街道を偲ばせる道が続いている。
土道の旧道を抜けて大石神社前から延びてきた道に合流し、その先のY字路を左に折れて坂道を上っていくと右手に環境霊園横浜みどりの里があり、上り詰めたところで厚木街道(国道246号線)に合流する。

稲荷神社 旧道口 旧道口 馬の背
長津田交差点で厚木街道(国道246号線)を渡った東側に稲荷神社がある。
社殿は東側を向いて建っており、前方には畑が広がり、その先に林があって山村を思わせる景色である。
街道に戻って先に進むと、つくし野交差点の手前左手に旧道口がある。
この旧道は、ガソリンスタンドを廻り込むように進み、その先でつくし野交差点に突き当たり、厚木街道(国道246号線)の向い側に続いている。
つくし野交差点を横断歩道橋で渡って、延長線上の旧道坂道に入る。 坂道を登り詰めると、道の両側が切り立った崖になっている 「馬の背」 と呼ばれる道に出る。
道の右側は急な斜面で、崖下に田園都市線が走り、西の方角に大山を望むことが出来る。
ここは地元の方の散歩コースになっており、夜景撮影の穴場スポットになっているようである。

こうま公園 道祖神 地蔵堂 東名入口交差点
馬の背を過ぎて厚木街道(国道246号線)に合流し、右手眼下にすずかけ台駅を見て進むと、駅方向に下る旧道がある。ここを先に進むと東急田園都市線を渡る橋の前から、再び厚木街道へ上がる旧道坂道がある。
この坂道の右手に南つくし野こうま公園があり、上り詰めたところに白馬の親仔馬像が建っている。
先に進んでいくと右手の町田南つくし野郵便局の脇に、昭和25年(1950)・昭和46年(1971)の道祖神と平成元年(1989)に建てられた道祖神建立の記念碑が建っている。 道祖神と厚木街道(国道246号線)を挟んだ東側に地蔵堂がある。
地蔵堂に安置された地蔵菩薩立像は、元文元年(1740)に念仏供養や所願成就を願って建てられたものである。
傍らには、昭和26年(1951)の道祖神が建っている。
先に進むと町田市辻交差点の先を左手に入る旧道があり、直ぐ先で国道16号線に突き当たり分断される。
ここには横断歩道が無いので右手の東名入口交差点で渡っていく。

一里塚 庚申塔 日枝神社 圓成寺
街道は国道16号線を渡って行くが、ここで東名入口交差点を渡った厚木街道の右手に並行する通りに一里塚があるので寄り道をする。
ここは大山街道と町田街道が交差するところで、町田街道の一里塚跡である。
塚上には、明治中期に火難・盗難除けを祈願して御嶽神社が祀られている。
街道に戻って国道16号線の先を進むと、右から来る一里塚前の道の延長線上となる道が、交差するところに大ヶ谷戸(おおがやと)の庚申塔が建っている。
この庚申塔は、文久3年(1863)に建てられたものであり、台座に 「つる間むら」 と刻まれている。
庚申塔を過ぎて100mほど進むと、左手に日枝神社がある。この日枝神社は、熊野神社の末社として江戸時代中期に創建されたと言われ、本殿は町田市指定有形文化財に指定されている。
境内には、稲荷神社の境内社がある。
先に進むと右手に浄土真宗本願寺派の山王山薬王院圓成寺がある。
圓成寺は、北条氏に仕えていたこの地の領主中山修理亮が出家して空存と称し、当寺を開山したと言われている。本堂余間には、室町時代後期に作られた聖徳太子立像があり、町田市指定有形文化財に指定されている。

道祖神 鶴瀬橋 観音寺 阿夫利神社御分霊社
街道に戻り240~50mほど進んだところで、右手に旧道痕があるが、直ぐ先で厚木街道(国道246号線)で分断されるため、先に進んで行くと厚木街道との合流地点左手に五貫目の道祖神が建っている。
この道祖神は、安政3年(1856)のもので、元は現在地より300m西方の鶴瀬橋手前に建っていたものであり、台座に 「左江戸道・右大山道」 と刻まれている。
道祖神の先の目黒交差点で厚木街道(国道246号線)を横断し、やや戻って旧道に復帰すると、その先の境川に架かる鶴瀬橋がある。
境川は、東京都町田市相模町の草戸山に源を発し、東京都と神奈川県の境界に沿って流れ、下流で相模湾に注いでいる。
境川の名前は、相模国と武蔵国の境を流れたことに由来する。
鶴瀬橋の渡詰め右手に高野山真言宗の鶴間山東照院観音寺がある。観音寺の創建年代等は不詳であるが、本尊は十一面観音菩薩で、当初、金亀坊と称していたという。
境内には、六角形の太子堂、金亀坊稲荷神社、弁財天堂があり、観音寺所蔵文化財に観音寺厨子、木造地蔵菩薩半跏像がある。
観音寺前の交差点を渡ると直ぐ右手に、阿夫利神社御分霊社がある。当神社の創建年代等は不詳であるが、ご祭神は大山祇大神・高靄神・大雷神で、境内には大黒天開運神社があり、大国主大神・太閤豊臣秀吉公霊が祭られている。
また当神社は、この地の豪族だった高下家の敷地内にあり、高下家は新田義貞の流れを汲む一族とのことで、新田義貞公像・新田軍の鎌倉進撃路図などのほか、道標を兼ねた相州鶴間村宿碑などがある。

下鶴馬宿並み 旧家 稲荷神社 高札場跡
下鶴間宿は、江戸時代末期に公所・山谷・宿の三つに分かれていたが、山谷と宿は合わせて目黒と呼ばれていた。
長津田宿まで一里、海老名市の国分宿まで二里の位置にあり、長津田宿と同じくらいの規模であった。宿には、旅籠・商家を中心に居酒屋・餅屋・質屋・染物屋などがあった。江戸時代の南画家・蘭学者である渡辺崋山、江戸時代の国学者である小山田与清、伊能忠敬測量隊などが訪れている。
阿夫利神社御分霊社を過ぎると、右手に立派な塀と表門を構えた旧家がある。 続いて右手の金子商店の裏に稲荷神社がある。稲荷神社の由緒等は不詳であるが、小さな鳥居の奥に赤い覆屋があり、中に稲荷神社本殿が祀られている。 直ぐ先で信号交差点を渡ると、左手の下鶴間ふるさと館の前に高札場跡がある。
下鶴間宿には高札場が二ヶ所あり、そのうちの一ヶ所がこの付近にあったことが絵図から分かっている。

下鶴間ふるさと館 鶴林寺 子育地蔵尊 道標
本日は休館日であったが、ふるさと館には市指定重要文化財の旧小倉家住宅母屋と土蔵が復元されている。
母屋は安政3年(1856)に建築されたもので、宿場の商家住宅として県内でも数少ない建物である。土蔵は前身建物の古材を用いて大正7年(1918)に同じ規模で再建された商家の附属建築で、一般的に袖蔵と言われる。
先に進んで右手の黒塀の旧家を過ぎると、右手の高台に浄土宗の宝亀山壽翁院鶴林寺がある。境内へは、手前の不動尊前に出る石段と本堂の前に出る石段がある。
鶴林寺は、永禄12年(1569)に創建され、本尊は阿弥陀如来像と両脇侍像の3体である。
境内には、貞享元年(1684)造立の不動明王像を祀った不動堂、天神社・蚕神社の境内社がある。
鶴林寺前の坂道を登り詰めると、Y字路の右手に子育地蔵尊が祀られている。
地蔵堂には2体の地蔵菩薩が安置され、地蔵堂の脇には常夜燈と刻まれた小さな石柱が建っている。
地蔵堂の前のY字路中央に風化した道標があり、この脇に 「渡辺崋山とまんじゅうや」 の解説板が建っている。
道標は、半分埋まって風化しているため判読できない。

厄除地蔵尊 旧家 諏訪神社 日枝神社
続いて100mほど先にY字路があり、この中央に厄除地蔵尊を祀った地蔵堂がある。
この地蔵菩薩は、明和元年(1764)のもので、下部に 「左ざまみち・右大山道」 と刻まれている。
厄除地蔵尊のY字路を左に進んでいくと、右手に石積みの塀に囲まれ、表門の前に立派な松の木が立つ旧家がある。 旧家の向いの細い筋を東に入っていくと、街道の東側に並行に走る道の左手に諏訪神社がある。諏訪神社の創建年代は不詳であるが、鎌倉時代中期に諏訪社として祀られた言われ、延宝8年(1860)再建の棟札が確認されている。境内には、元宮、稲荷神社、八坂神社、秋葉神社、古峯神社の境内社のほか、文化12年(1815)の地神塔、推定樹齢二百数十年のシイの木などがある。 街道に戻って進むと変則十字路の右手に下鶴間の日枝神社がある。
日枝神社の創建年代等は不詳であるが、新編相模国風土記稿に記載されている下鶴間村の山王社と言われ、現在は諏訪神社の境外末社となっている。
鳥居脇には、年代不明の風化の進んだ庚申塔が建っている。

山王原公園
日枝神社を過ぎると200mほど先に山王原公園がある。この先は住宅街の道を淡々と進み、800mほど先で小田急江ノ島線の鶴間駅前を通るので、今回はここで終了し、鶴間駅から帰宅することとした。

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