東大寺型八角燈籠

弘法大師像

子育地蔵尊由来碑

無縁塔

六地蔵尊

子育地蔵尊の扁額

明暦4年(1658)の子育地蔵尊

水子地蔵尊

本堂に掛かる総持院の扁額

総持院本堂

 鎌倉時代に海老名の郷司藤原廣政が霊夢により建立した寺は周囲に濠を巡らせ12の坊舎が甍を並べ棟を競っていた。そのため近年までこの地の小字を 「坊中」 と称した。元弘の乱(鎌倉末期)の新田義貞の兵火により坊舎ことごとく焼失し、足利持氏がこの地を本拠とした。永享の乱(室町時代)に再び大兵火の及ぶところとなるが、天正年間(安土桃山時代)に慶雄大徳により9間四面の大本堂や6間四面の大庫裡などが復興され、小田原北条長氏・氏康らの外護の下に発展し、北条氏滅亡後に関東に入国した徳川家康からは、特に他の有力大寺院に先駆けて寺領寄進の朱印状とその後の厚い庇護を受ける。
 江戸時代に 「不入」 「葵の紋所」 を許され、高座・愛甲・大住の3郡に末寺19ヶ寺を持つ中本寺(中本山)となり、法談所・古義真言宗関東檀林本寺として隆盛を極め、神仏分離(明治元年)までは有鹿神社の別当寺も務める。明治初年の廃仏毀釈の嵐の中で多くの貴重な寺宝も失われ、威容を誇った大本堂や大庫裡などの建物も関東大震災にて現山門を残して全て倒壊したが、順次復興して今日に至る。

 この地蔵尊は、江戸初期の明暦4年(1658)2月に地元の念仏講により宝樹寺の閻魔堂境内地に建立される。その後、閻魔堂は廃堂となり、宝樹寺も明治初年には総持院に合併して廃寺となるも、ご尊体は石仏のため朽廃を免れ、念仏講により路傍に祀られ子育地蔵尊として350年の長きに渉り親しまれ来る。いま、さがみ縦貫道建設に伴う市道新設のため尊堂の移転やむなきに至り、旧念仏講の懇情を黙し難く、�斯にこの地を選び尊堂を移設しご尊体を安置し、永く祀り奉らんとす。

六地蔵尊

総持院由緒碑

山門