渡辺崋山は天保2年9月21日から数日当地に滞留し、その繁盛に驚き「厚木の盛んなること都とことならず、家のつくりさまは江戸にかわれども、女男の風俗かわる事なし」と游相日記に記している。崋山39歳のときである。このおり彼は邑内の風雅を愛する人たちを集めて歓談し、需めに応じて厚木六勝を描いた。雨降晴雪・假屋喚渡・相河清流・菅廟聚雨・熊林暁鵜・桐堤賞月がそれで、崋山来遊から130年ことの忘れ去られるを慮り、大略を記してのちに傳える。
(厚木市長石井忠重識・武藤實書)
この地は矢倉沢往還や藤沢道、八王子道が相模川を渡る渡船場で、常時五艘の舟が備えられ旅人などに利用されていました。
江戸時代に刊行された 『新編武蔵国風土記稿』 の記述によると、冬の渇水期には土橋が設けられていました。
この渡船場の厚木側の権利は厚木村と溝呂木家が持っていました。溝呂木家の権利は徳川家康から与えられたものと伝えられています。天保2年(1831)9月、矢倉沢往還を通って厚木を訪れた渡邊崋山は 「厚木六勝」 図を残していますが、その一つ 「仮屋喚渡(かおくかんと)」 はこの場所を描いたものです。
明治41年(1908)相模橋の開通によってこの渡船場は廃止されその役目を終えました。
(厚木市教育委員会)
厚木の渡し碑
厚木村渡船場跡解説
渡辺崋山来遊記念碑
足立八州路句碑
河音に さかろう月の 風もなし