この石は、その昔、大山街道の交通の便をはかるため、目久尻川に架けた石橋の石で大正12年(1923)の関東大震災のとき川に落ちたものを昭和52年(1977)12月河川改修のとき引き上げたものです。これには宝暦7年(1757)に国分の重田七三郎翁が企てた石橋勧進帳の木版が残っており、この架橋のありし日を物語っています。

 逆川は、大化の改新が行われたころ条里制による海老名耕地の灌漑用と運送用に掘られた川といわれています。
 その全長は約25㎞、ここから凡そ1㎞上流で目久尻川を堰き止めて分水し、この地点で相模横山を横切り、西北方に流れをとり、今泉境で耕地に注ぎでました。このような逆の流れ方をしていたので、「逆川」 の名が生まれたのでしょう。
 なお舟着場と呼ばれたところから下流は、日本最古の運河として平安中期まで利用されていたようで、その遺構は今なお地下に眠っています。
 後世流れの向きを変えて 「新堀」 といい昭和15年頃まで国分・大分・今里・杉久保・上河内・中河内・本郷・門沢橋・倉見・宮山などの田を潤していました。
 現在この地点より先は、埋め立てられ舟着場付近のみ僅かに昔の面影を残しています。
    (海老名教育委員会)

逆川由来碑

史跡逆川碑

石橋石材