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日光脇往還   (八王子追分~箱根ヶ崎


令和4年4月30日(土)   ☀    八王子追分~箱根ヶ崎    15.0㎞
日光脇往還は、江戸時代に八王子千人同心が日光勤番(東照宮の火の番)を務める道として整備され、総距離は156㎞あるが、途中で例幣使街道と合流するので、合流地点までの85㎞を歩くこととした。
今日は甲州街道との追分である八王子追分を出発し、途中横田基地で消滅した長い迂回路を歩き、箱根ヶ崎までの行程とした。

千人同心屋敷跡記念碑 伏見稲荷神社 善龍寺 国道16号
追分町交差点の陣馬海道沿いに八王子千人同心屋敷跡記念碑が建っている。八王子千人同心は、小人頭を起源とする千人頭(せんにんがしら)10人に率いられた同心1000人から組織された。千人同心の役割は、八王子の治安維持や国境警備、大きな合戦があれば従軍し、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも出陣した。追分交差点の近くには、江戸の清八が建てた甲州道中の道標が建っている。 追分交差点から街道を東へ400m程進んだ本郷横町交差点を左折すると、左手に小さな伏見稲荷神社がある。朱い鳥居には、伏見稲荷大明神の扁額が掛かっている。 伏見稲荷神社の先を更に80m程北に進むと、日蓮宗の興栄山善龍寺がある。善龍寺は室町時代の長享元年(1487)に池上本門寺の日調上人の説教に帰依した当時の住職日英上人が開基と言われている。山号は池上両本山の長興山妙本寺(鎌倉)と長栄山本門寺(池上)の2字をとって興栄山とした。境内には天然理心流の弟子が建立した増田蔵六の碑がある。 街道に戻り八幡町交差点で左折すると、ここから先は、ほぼ国道16号に沿った道を進むこととなる。国道16号は、神奈川県横浜市を起終点とし、首都圏を環状に結ぶ一般国道である。

宝樹寺 福全院 極楽寺 浅川橋
八幡町交差点から街道(国道16号)を北へ470~80m程進むと、左手に時宗の四木山声寿院宝樹寺がある。宝樹寺は、遊行二世他阿真教が嘉永2年(1304)に創建したといわれている。境内左手には、遊行四十一世独朗が勧請した聲阿彌稲荷社、右手には十王が祀られた閻魔堂がある。また、庚申塔、猿田彦大神碑、二十三夜塔などの石造物がある。 宝樹寺を出て直ぐ左手の路地を入ると、突き当りに臨済宗南禅寺派の大横山福全院がある。福全院は、大永元年(1521)月山津円居士が開基として創建されたと言われている。境内の南側には、水天宮があり、本堂前には風化した六地蔵尊が並んでいる 街道(国道16号)に戻ると、道を挟んだ向かい側に浄土宗の寶樹山極楽寺がある。極楽寺は、始め滝山城下にあり、城主大石定重の開基とも言われている。現本堂は享保13年(1728)の再建で、庫裡は多摩村蓮光寺から旧家の建物を移築したものである。境内には、武田信玄の五男・仁科信盛の娘(小督)の墓、千人同心のひとりであった塩野適斎の墓、北条氏照の家臣であった長田作左衛門の墓などがある 極楽寺の直ぐ先で浅川に架かる浅川橋を渡る。浅川は、八王子市の西方の恩方から流れる多摩川の支流である。明治期までは、この地に橋は無く板橋を架けて渡河していた。浅川橋の当初は、明治34年(1901)に架けられた木製の橋であったが、昭和5年(1930)に鋼製の橋に架け替えられた

川口川橋 稲荷坂 旧道口 中央自動車道
浅川橋を渡ると200m程先で川口川を川口川橋で渡っていく。川口川は、八王子上川町に源を発し、川口川橋の下流で浅川に合流する延長14㎞の一級河川である。 川口川を渡ると次第に上り坂となり、稲荷坂でやや勾配のある切通しの坂道となる。 稲荷坂の途中で右手(東側)に分岐する旧道がある。ここからややうねった坂道の旧街道の面影を残した道となる。途中、ひよどり公園脇を通り、さらにステーキハウスうかい亭前を通って、登り詰めると小宮公園がある。 小宮公園から坂道を下ると、その先で中央自動車で旧街道は消滅分断される。中央自動車道に架かる橋を渡り、右に折れて旧街道に復帰する。復帰した旧道は更に下りの道となり、八王子インターチェンジの下を抜けていく。

庚申塔ほか石造物 左入神明神社 新左入橋 切通の坂道
八王子インターチェンジ下を抜けると、左手の埜村石材店の前に享保16年(1731)の青面金剛の庚申塔、光明真言供養塔、風化した地蔵尊が建っている。 埜村石材店の先で国道16号に合流すると、左手段上に左入神明神社がある。左入神明神社の創建年代等は、境内の由緒碑によると元久元年(1204)の創建であり、明治41年(1908)左入村内に鎮座していた山神社を合祀したと言われている。御祭神は天照皇大神宮、大日霎貴神を祀っている。 左入神明神社を過ぎると、谷地川に架かる新左入橋を渡っていく。谷地川は、八王子市戸吹町に源を発し、下流の日野市で多摩川に合流する延長13㎞の河川である。 新左入橋を渡り左入町交差点を過ぎると切通の坂道となる。登り詰め辺りの左手に滝山城跡入口の看板が建っている。滝山城跡は、ここから直線で2.5㎞程西側にある都立滝山公園内にある。滝山城は、北条氏康の三男・北条氏照の居城として知られている。木曽義仲の末裔である大石定重が永承18年(1521)に築いたと言われている。ちょっと踏み込んでみたが、ハイキングコースになっているようである。

旧道口 拝島橋 旧道口 拝島大師
滝山城跡入口から先に下って行くと、左手の八王子自動車検査登録事務所の先に旧道口がある。この旧道は国道16号に並行しており、600m程先で多摩川の土手に突き当たり、消滅(当時は渡船)している。 多摩川の土手を右に折れて、多摩川に架かる拝島橋を渡っていく。拝島橋は、下流の日野橋に遅れて昭和12年(1937)に橋の建設を決定したが、太平洋戦争の影響で工事が中断し、昭和30年(1955)に竣工した。拝島橋の親柱には、渡し船のモニュメントがつけられており、渡詰めの拝島町四丁目南児童遊園には、「拝島の渡し碑 が建っている。」 拝島橋の渡詰めから上流側へ100m程土手を進むと、かつて 「拝島の渡」 があった辺りから北に向って街道が復活している。 旧道を真直ぐ北へ350m程進み、田島屋米穀店の手前で左折するのが旧街道であるが、直進すると拝島大師、普明寺、日吉神社に突き当たる。拝島大師は、天台宗の寺院で本覚院と称する。寺伝によれば、元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、敬湛大僧都が大師像を持出し、天正6年(1578)この地に大師像を安置し、本覚院を創建したと言われている。境内には、文殊楼、弁財天堂、五重塔、経蔵堂などがある。

普明寺大日堂 日吉神社 旧道口 普明寺
拝島大師(本覚院)の西に隣接して天台宗の拝島山普明寺大日堂がある。大日堂は、普明寺の境外仏堂で、天暦6年(952)が創建と言われ、この年、多摩川で大日如来が発見され、御堂に安置された。御堂の場所は不明であるが、滝山城が築城されたとき、鬼門除けとして石川土佐守が現在地に移したと言われている。境内には、鎌倉時代作の金剛力士像を祀る仁王門、薬師堂、おねいの井戸などがある。 大日堂に隣接して拝島日吉神社がある。日吉神社の創建年代は不詳であるが、隣接する大日堂が再建された天正年間(1573-93)頃創建されたと言われている。古くは山王社と称していたが、明治2年(1869)神仏分離令により社号を日吉神社と改称し、現在に至っている。日吉神社拝殿は、大日堂と並んで建っており、天台宗普明寺の守護社であったことが分かる 田島屋米穀店の手前に戻って旧道口を進んでいく。この旧道は、少し進んで大日堂前から来る道に出て合流する。 先に進むと大日堂からは350m程離れたところに、天台宗の拝島山普明寺がある。普明寺は、大日堂の別当寺として、天正元年(1573)に創建され、大正6年(1917)拝島大火により焼失し、昭和10年(1935)に本堂再建され、その後、山門や客殿などが造られた。境内には、枯山水、延宝9年(1681)の石灯籠、句碑などがある。

龍津寺 地蔵尊 防音壁 旧道口
街道に戻ると100m程先、左手に曹洞宗の玉應山龍津寺がある。龍津寺は、花房主計頭が開基となり、天文年間(1532-55)に創建され、天正19年(1591)に徳川家康より寺領3石の朱印状を拝領したと伝えられている。街道に面した山門を進むと、右手に中門があり、本堂は東を向いて建っている。境内には、延命地蔵尊ほか、たくさんの石造物がある。 街道に戻って400m程進むと、街道が右にカーブする角に地蔵菩薩が建っている。この地蔵菩薩は、江戸時代初めの慶安年間に八王子千人同心が日光勤番に赴くために整備された日光脇往還の宿場町として 「拝島宿」 が成立してまもなくの天和2年(1682)から鎮座している。東を向いているのは、坂下に鎮座する地蔵尊と向かい合って拝島宿を東と西の両側から宿場内を見守るためと伝えられている。 地蔵尊から500m程先で国道16号に合流すると、車道と歩道の間に防音壁が続いている。この防音壁はガラスで出来た壁であるが、車の音は殆ど聞こえなくなるほどの効果がある。 国道16号を800m程進むと、武蔵野橋南交差点の右手から拝島駅方向へ延びる旧道口がある。

共光稲荷神社 日光橋 横田基地 加藤神社
街道を進んでJR鉄道線(青梅線・五日市線・八高線)に突き当たるが、その左手に共光稲荷神社がある。共光稲荷神社は、明治39年(1906)に創建されたもので、拝島駅を中心とする東西南北の住民の信仰を集めて今日に至っている。街道の反対側へは、拝島駅を抜けて行く必要がある。 JR拝島駅を迂回して街道に出ると、玉川上水に架かる日光橋がある。日光橋は、八王子千人同心が日光勤番に赴くために整備された橋で、玉川上水を横切るために架設された。この橋は明治24年(1891)に煉瓦積みアーチ橋に架け替えられ、昭和25年(1950)に現在のコンクリート橋になった。 日光橋の先で五日市街道に突き当り、日光脇往還は横田基地で消滅している。横田基地は、第二次世界大戦中は、多摩陸軍飛行場として使われていたが、戦後、連合国軍のアメリカに引き渡され、昭和35年(1960)頃に現在の規模に拡充された。ここからは横田基地にに沿った国道16号と都道166号を通り、更に新青梅街道で分断された先の旧道口まで迂回する必要がある。 新青梅街道を渡って旧道口まで迂回する途中に加藤神社がある。加藤神社は、天正10年(1582)に当地で討死した武田勝頼の家臣加藤丹後守景忠を村民が祀り、八幡神社と称していたのが始まりと言われている。境内には、加藤丹後守景忠の供養塔である五輪塔や萬霊塔などの石造物が建っている。

旧道口 旧日光街道交差点 大橋 狭山池
加藤神社から新青梅街道沿いを150m程東に進んだ左手から旧道が復活している。横田基地方向を見ると僅かに残る旧道痕が、新青梅街道の向い側に見える。 旧道を進んでもそれほど旧街道らしい面影はないが、この辺りが箱根が崎宿の中心にあたり、旧日光街道と青梅街道との交差点に 「旧日光街道」 の道路標識がある。交差点角には、明治5年(1872)創業の 「漢方の會田」 があり、建物は重厚な造りである。 旧日光街道交差点から150m程先に残堀川に架かる大橋がある。大橋の親柱は、常夜燈を模したもので、かつてこの地に建っていた常夜燈を偲ぶものである。常夜燈は関東大震災で倒壊し、現在は残堀川の上流の狭山池公園に再建されている。 大橋から残堀川を370~80m程遡ると狭山池がある。この辺一帯は、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられた窪地となったところである。鎌倉時代から記録が残り、江戸時代は狭山丘陵から流れ出す残堀川に狭山池の水を流し、玉川上水の助水とした。この池の畔に大橋脇に建てられていた常夜燈が再建されている。また近くには、馬頭観音や蛇食い次右衛門像などがある

圓福寺 JR箱根ヶ崎駅
街道に戻ると大橋の西100m程のところに、臨済宗建長寺派の北小山(ほっこさん)圓福寺がある。圓福寺は、天正元年(1573)当地の豪族村山土佐守義光が、梅室慶香禅師を開山として創建されたという。境内には、新しく造られた仁王門、観音堂、鐘楼などがある。 本日は大橋で終了し、最寄りのJR箱根ヶ崎駅へ出て帰宅の途に就いた。箱根ヶ崎駅は、昭和6年(1931)国有鉄道八高線の開通に伴って開業した。東口ロータリーには、馬の水飲み場のモニュメントが建っている。

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