翁、諱(いみな)は一武、号は甲斎、俗称は蔵六。実は武州多摩郡戸咲村、坂本十右衛門信明の末男として生まれ、幼名は専蔵。若くして他姓を嗣ぎ、三沢蔵六と改め、専ら剣道を学ぶ。文政8酉年、又増田家を相続す。蓋(けだ)し増田家は世々甲州に在りて武田氏の家臣。既に中祖佐内は信玄勝頼二代に仕えて鎗組の一兵たり。甲州没落後、天正10年窪田越後守組に属し、始めて御当家に仕え奉りに在り。
天正18、武州八王子城に在り、北条陸奥守滅亡す。時に御入国なり。我党を彼の地に召され、其の落城跡を守らしむ。居すること4年の間、近国諸所弥(いよいよ)静まり、彼の地名を今の八王子に移され駅西に於いて千人士組屋敷を賜り、各住所を給う。
字千人町という。即ち此の地なり。家祖佐内より翁に至りて十一代勤仕の年あり。翁、文政8、相続番入り、三年にして世話役に進み、又組与頭に昇る。天保13年寅10月、植溜に於いて参政列参して挙業あるの節、翁、爰(ここ)に剣柔棍法の三術を勤めて試を蒙く。
天保14、日光御参詣の御共に出役。弘化3年7月、吹上、上覧所に於いて、執政相候列席にて御長柄調練を修行す。朝の試を遂げ褒詩を蒙く。日光常火番とも郡面出役すること6度。翁、齢60有6、今に至りて体気益壮なり。所謂矍鑠(かくしゃく)たり。翁の剣法、源は鹿島神道流に出つ。元祖飯篠長威の19代の門、近藤長裕此流を一派開手し、天然理心流と改めること青藍の誉れあり。翁、此の門に入りて学ぶ。長裕既に没し、其の後、二代目近藤方昌に随ひ、切帋(きりかみ)より皆伝請方に至る。方昌、亦卒す。
流祖長裕の高弟小幡健貞、翁の執心に感じ、先師の伝授を以って指南免許を翁に与ふ。之に因り当流三代目と成る。
其流益栄へ、門人弥多く、すでに千有余人に及ぶ。師父の名を顕わし、揚名の功を成す。真に英士と謂うべきなり。門人、其伝を鐫(せん)し、不朽に備へんと言を需(もとめ)らる。之の為に因り、小伝を誌し其文世に通じ易きを量り俗辞を厭(おさえ)ず。和語を以って之を書す。
増田蔵六翁之小伝
日蓮宗興栄山善龍寺寺標
善龍寺本堂
本堂に掛かる興栄山の扁額
浄行菩薩
浄行堂
本堂前の白象
増田蔵六翁之小伝碑
南無妙法蓮華経題目碑
日天月天妙法守護碑