この辺一帯は、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられ窪地となった所である。大雨が降ると周辺の水が集まり、丸池を中心とした約18haは水浸しになり粘土質のため、水はけが悪く耕作できず、芝地になっていた。
鎌倉時代の歌集八雲御抄に 「筥の池、武蔵国」 とあり、同時代の夫木集(ふぼくしゅう)に、「冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき」
と詠まれ、古くから世に知られた池であった。
農耕不適の広い芝原は、天明の打ち壊しの集合場所や、幕末の農兵訓練の場所ともなった。 江戸時代のはじめ狭山丘陵から流れ出す残堀川に狭山池の水を流し、玉川上水の助水とした。 その後、文化4年(1807)に大がかりな池ざらいをした記録がある。そのため池の水位が下がり、現在の規模となった。 蛇食い次右衛門の伝説もこのような事情から生まれたものであろう。 明治から昭和にかけて芝地の大部分は農民に払下げられたが、残った池及びその周辺(約1~2ha)は、昭和26年に都立狭山自然公園に指定された。 その後、昭和58年箱根ヶ崎より町が譲り受け、公園として生まれ変わり町民の憩の場所となった。
(瑞穂町教育委員会)
この常夜燈は慶応元年(1865)に日光街道と残堀川が交わる地点に架けられた石橋のたもと(村野家わき)に建てられたもので、引又(埼玉県志木市)の石工弥十良の作という。
この頃は、狭山池周辺で農兵の調練があり百姓一揆が押し寄せるなど不安の多い時代だった。また幕末のあわただしさを反映して人馬の通行が多かった。このような状況の中で、燈明を灯し、通行人の道しるべにするとともに、天下泰平、村内安全を祈ったものである。
総高約5mで、台座に有名な中国の故事などの豊かな彫刻があり、近村でも珍しい大燈籠であった。
その後、関東大震災で倒壊したため、狭山神社境内に置かれ、昭和61年(1986)狭山池公園の整備に際し、火袋破損箇所を修復し、現在地に再建した。
(瑞穂町教育委員会)
昔、狭山池は 「筥(はこ)の池」 と呼ばれ、18町歩(17.8ha)もある大きな池でした。
とても暑いある日、百姓の次右衛門が 「筥の池」 で水遊びをしました。すると小さな蛇が絡み付けてきます。力持ちの次右衛門はその蛇をつかみ嚙みつきました。途端に空は大荒れとなり、小さな蛇はたちまち大蛇となり、傷口からは血が7日7夜流れ続けました。退治された蛇とともに池の水は枯れ、小さな池となりました。その時の水の流れが、さながら大蛇のようであった様子から
「蛇堀川」 と呼ばれ、後に 「残堀川」 となりました。
このお話は、狭山池(筥ノ池)から残堀川へ堀をつなぎ、池の水を玉川上水の助水としたことを反映して生まれました。
(瑞穂町)
蛇食い次右衛門像
狭山湖説明
狭山池公園
厳島神社本殿
厳島神社
文政2年(1819)の馬頭観世音碑
常夜燈由緒
大橋たもとにあった常夜燈