長田作左衛門は、はじめ北条氏照の家臣であったと言われています。八王子城落城後は前田利家に従ったと伝えられています。その後、作左衛門は、八王子城の東方、横山の地に横山宿をつくり市場を発展させました。これは今日の八王子市の発展の基礎となったと言われています。元和3年(1617)に亡くなったと伝えられています。現在残っている供養塔は、天保年間初期に長田氏の子孫である川邉、金丸及び飯島の各氏が願主となり、嘉永年間に建立したものと言われています。右手にある塚も、昭和63年の確認調査の結果、同時期に建設されたものと推測されています。(東京都教育委員会掲示板より)

 適斎は千人同心の一人であったが、享和年間(1801-04)幕命により蝦夷地(今の北海道)の経営に従った。のち、原胤敦や植田猛緒(ともに墓地は八王子市内にある)らとともに 「新編武蔵風土記稿」 の編纂に従い、また相模風土記稿の編纂にも従事している。これらのほかに 「桑都日記」「築井県行記」「日光客申漫筆」「支稿」 など多くの著書がある。諱は轍、字は子明、通称を所左衛門、適斎のほか笛水とも号している。弘化4年(1847)11月16日、73歳で没した。(東京都教育委員会掲示板より)

 玉田院は俗名を小督といい、武田信玄(晴信)の五男、仁科五郎盛信の娘です。天正7年(1579)に盛信の居城である高遠城で生まれたと推測されます。天正10年(1582)、織田軍による甲州攻めの戦禍を避けるため、伯母である松姫とともに高遠城から八王子へと逃れ、この地で暮らしました。後に、関東の代官頭となり八王子に陣屋を構えた武田氏の遺臣・大久保長安の庇護を受け、寺を寄贈されます。まもなく小督は出家し生弐尼となりますが、病を得て、慶長13年(1608)に29歳で没しました。その後、寺は小督の戒名である 「玉田院光誉容室貞舜尼」 にちなんで 「玉田院」 と呼ばれるようになりました。当初、墓は玉田院にありましたが、元禄年間に廃寺となり荒れ果てていたのを、仁科家の子孫である仁科資真が正徳5年(1715)に極楽寺へと改葬しました。(東京都教育委員会掲示板より)

玉田院墓

塩野適斎墓

長田作左衛門墓

勢至丸(法然上人)像

旧家を移築した庫裡

明和4年(1767)の手水石

弁天堂に掛かる辨才天の扁額

鐘楼堂

弁天堂

樹木に囲まれた参道

享保13年(1728)再建の極楽寺本堂

本堂に掛かる極楽寺の扁額

南無供養塔(左)、地蔵菩薩立像

南無阿弥陀仏名号碑(左)、宝篋印塔

南無阿弥陀仏名号碑

山門に掛かる寶樹山の扁額

極楽寺山門

浄土宗寶樹山極楽寺寺標