この道標は文化8年(1811)江戸の清八という職人(足袋屋)が、高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の3ヶ所に建てた道標の一つです。
 その後、昭和20年(1945)、8月2日の入王子空襲によって4つに折れ、一部は行方不明となってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館の屋外に展示されていました。
 このたび、地元要望を受け、この道標が復元され、当地に建立されました。二段目と四段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです。
 八王子市教育委員会 平成15年5月

追分道標説明

追分道標

左甲州道中高尾山道

八王子千人同心の文化
 原敦は文化9年(1812)、幕府から地誌探索の命令を受け、組頭らとともに文政8年(1825)まで約13年をかけて、武蔵国の多摩郡、秩父郡などを調査します。これらの成果は 「新編武蔵国風土記稿」 としてまとめられました。
 また、地誌探索に参加した組頭・植田猛繕(もうしん)は独自にまとめた 「武蔵名勝図会」 を残しています。これらは現在、八王子や多摩地区の歴史を研究する上で重要な資料となっています。
 寛政の改革(1787-93)で文武が奨励されて、さまざまな流派の剣術・柔術などが学ばれるようになります。
 組頭・塩野適斎(1775-1847)は大平真鏡流の八王子総指南役として多くの千人同心を指導しました。適斎は千人同心の歴史を記した 「桑都日記」 を書いたことでも有名です。
 組頭・増田蔵六(1786-1871)は天然理心流の創始者・近藤長裕に入門し、その後、指南免許を得て千人町の屋敷に道場を開いて千人同心や付近の農民など多くの門弟を指導しました。
 洋学は外国で唯一オランダに外交を開いていた長崎から伝わり、文化・文政期(1800年ころ)から蘭学として多摩にも伝わります。
 組頭・伊藤正純の弟・猶白(1747-1831)は医師で、晩年に蘭方を学び、オランダ語の手書きの辞書を残しています。また、組頭・秋山佐蔵(1816-1887)は江戸で蘭方を学んだ内科医で、我が国の印刷史初期の1858年に、金属活版印刷でドイツ医学書の翻訳刊行を行いました。
千人同心随一の学者と言われる組頭・松本斗機蔵(1793-1841)は、八王子に12年間滞在した北方探検家・最上徳内の書類を写すなどして、最新の海外事情にも通じていました。
 また蘭学者・高野長英、渡辺崋山、幕府天文方・高橋景保とも交流し、日本に近づく外国船に対する幕府の対応を憂い、海防論 「献芹微衷」 を水戸藩主・斉昭へ、異国船の打ち払いに慎重であるべきとする 「上書」 を幕府へ提出しました。
 天保12年(1841)には、その見識を買われて、浦賀奉行所に着任することになりましたが、直前に亡くなってしまいます。
 千人町を本拠地とする千人同心の約300年の活動により、八王子には千人同心関係の古文書や史跡などの文化財が多く残されています。これから千人同心のことが明らかになってきました。
 また、千人同心の蝦夷地開拓が縁になり昭和48年に苫小牧市と、日光日の番を縁として昭和49年に日光市と、姉妹都市の盟約を結んでいます。

八王子千人同心の成立
 八王子千人同心は江戸時代に千人町と付近の村々に分かれて住んでいた半士半農の武士集団で、そのもとは甲斐の武田氏の家臣・小人頭と配下の小人(同心)たちにあります。

 天正10年(1582)、武田氏が滅び、同年6月織田信長が本能寺の変で死亡すると
、甲斐国は徳川家康が治めるようになります。家康は旧武田氏の家臣を取り立て、その中で9人の小人頭を武田時代と同様に甲州の国境9か所の道筋奉行に任じました。
 天正18年(1590)、八王子城が豊臣秀吉の小田原城攻めの時に落城した後、徳川家康は関東に領地換えとなり、小人頭と配下約250人を八王子(現在の元八王子)に移し、落城後の城下の警備に当たらせました。
 天正19年(1591)、頭を1人増員し、同心も北条やその他の浪人を加え500人とし、戦乱が治まりきらない時代には、戦闘部隊として朝鮮出兵時に肥後名護屋などにも出陣していました。
 文禄2年(1593)、小人頭と小人たちは現在の千人町に拝領屋敷地を与えられ、元八王子から移転します。千人町に移された理由としては、八王子城下の戦乱が鎮まったこと、甲州口の押さえとして江戸の西を守ること等があります。
 慶長4年(1599)、関ヶ原の戦いを前にして、代官頭・大久保長安の指示により1000人に増員され、文字通り 「八王子千人同心」 が成立しました。
 「千人町」 は最初から呼ばれていたのではなく、「五百人町」 と呼ばれていたことが記録にあり、「千人同心」 「千人町」 と呼ばれるようになったのは、暫く経った寛永年間(1624~)頃からと言われています。またこの辺りは千人頭・原家の屋敷があった場所です。

八王子千人同心の組織・公務
 
千人町に住んでいたのは頭10人と同心約100人で、他の同心は付近の村々に住んでおり、幕末の嘉永7年(1854)組頭・二宮光隣が作成した 「番組合之縮図」 によると、当寺の同心在住村は、東は三鷹市、川崎市登戸、南は相模原市、西は津久井郡、北は飯能市と広域にわたっていました。
 千人頭10人は幕府・鑓奉行配下の旗本(将軍の直臣で1万石未満の者)身分で今の横浜市都築区、千葉県市原市などに200石~500石の知行地を与えられていました。1人の千人頭に10人の組頭と90人の平同心が属し、各組100人の組織でした。同心は将軍の直臣であっても、お目見え以下(将軍に謁見する資格がない)の身分で、日常は農業を営んでおり、公務の時には武士となる珍しい集団でした。
 当初は関ヶ原の戦いや、大坂冬の陣、夏の陣に従軍するなど軍事的な役割を担っていましたが、戦乱がおさまるとともに家康の日光への改葬のお供、将軍の日光東照宮への社参のお供、江戸城修築の警備、将軍上洛のお供などを勤め、慶安4年(1651)日光に三代将軍家光の墓が造られると、翌慶安5年に 「日光火の番」 を命じられ、幕末に至るまでの公務の中心となります。
 日光火の番は東照宮の警備、防火、消火を行うもので、最初は、頭2人と属する同心50人ずつ100人が50日で交替するものでしたが、寛政3年(1791)からは頭1人同心50人が半年で交替することとなり、慶応4年(1868)まで、216年間に1030回にのぼりました。
 故郷から離れ、寒い日光での勤番は厳しいものでしたが、武士の身分として勤務する千人同心のほとんど唯一の公務でもありました。

八王子千人同心説明

八王子千人同心説明

八王子千人同心屋敷跡記念碑