武田氏の滅亡後、その家臣であった加藤丹後守景忠は妻子及び数名の家来を連れて当地まで逃れてきた。多摩郡を越えて入間郡に入る事ができず、この地で果てたのが、天正10年(1582)4月11日である。
 村民はその死を憐れみ、直径11m、高さ1.5mの塚を築き葬った。2基の五輪塔はその当時のものと思われる。
 寛政年間(1789-1801)に至り、加藤氏の後裔といわれる上野原の加藤最次郎が石塔を建てたり、練馬区の子孫が圓福寺に馬上丹後守像等を納めたのをきっかけに、村民の間にも信仰の念が深まり、加藤八幡宮が建立された。
 塚の上には、周囲約8mの大ケヤキをはじめ、杉・桜・クヌギ等の大木が茂っていたが、戦後航空障害と国道16号(現都道166号)の開通のため伐採された。この度、都道拡幅に伴い、塚を現在の地に移し、社も新築した。それに伴って、町史跡だった加藤塚を町旧跡と改めた。
(瑞穂町教育委員会)

寛政7年(1795)の常夜燈

寛政7年(1795)の常夜燈

寛政7年(1795)の手水石

手水舎

加藤神社鳥居

自然石の供養塔

神庫

加藤塚跡地説明

加藤塚(中央は3名連名の供養塔)

当時のものといわれる五輪塔

萬霊塔

拝殿に掛かる鎮静の扁額

加藤神社拝殿