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姫街道   (本坂峠口~豊川


令和元年5月4日(土)   ☀|☁    本坂峠口~豊川    12.0㎞
令和時代に入って最初に歩く街道は姫街道となった。今回は、前回終了した本坂峠口から御油追分までの区間で、本日は姫街道の難所の一つである本坂峠を越えて豊川までの予定である。本坂峠は、姫街道の正式名称である 「本坂通」 の名称由来の峠である。

東屋 本坂峠口 旧国道横断 鏡岩
自宅を5時15分に出て電車を6本乗り継ぎ、9時30分に本坂峠口に到着である。
本坂峠口前の国道362号脇に東屋があり、屋根に 「ふじのくに」 「またどうぞ静岡へ」 と書かれている。
ここで峠越えの準備を整えて出発である。
前回ここで終了したが、この登り口には、奥浜名湖自然歩道案内板と姫街道案内図が設置されている。
登り時始めは舗装路だが、直ぐ先で土道となり、一旦左眼下にみかん畑が見えるが、その直ぐ先で林の中に入っていく。
林の中に入ると石畳の道となり、程なく旧国道に突き当たり、向いの坂道に入っていく。
旧国道との交差点には、姫街道道標が建っており、「鏡岩0.5㎞」 とある。旧国道の先は、石が隙間なく敷き詰められ、勾配がきつい所は石段があったり、木々の間を抜けたりと変化に富んだ道である。
曲がりくねった坂道を登っていくと、所々に大きな岩が見られるようになり、左手に鏡岩と呼ばれる高さ4m、幅10mの巨大な岩が現われる。
傍らに建つ案内板によると、昔は光っていて旅の女性たちがこれを鏡にして身づくろいをしたという。旧東海道の鈴鹿峠にも縦2.3m、横2mの鏡岩があり、同じ珪岩(チャート)の断層である。

旧国道横断 椿の原生林と石畳 舗装路横断 本坂峠
鏡岩の先で林の道を進み、途中、ガレ場のようなところを過ぎると、二度目の旧国道の横断となる。ここにも姫街道道標があり、旧国道を横断した登り口には、「椿の原生林」 の標識が建っている。
旧道を登ろうとした瞬間、旧道から旧国道に飛び出してきたのは、大きな蛇である。
旧国道を横断して石畳の旧道に入ると、約100mほど椿の原生林が続いている。
毎年1月~3月にかけては、真っ赤な椿の花のトンネルができるという。
椿の原生林を抜けて先に進むと、旧国道から枝分かれした舗装路に突き当たり、ここを横断して向いの石段から旧道に入っていく。
ここに建つ姫街道道標には、「←椿原生林8分・本坂峠8分→」 と記されている。
石段の先の旧道は勾配がきつくなり、曲がりくねった灌木の道で、所々に姫街道道標が建っている。
クマ笹の道を抜けると本坂峠に到着である。
本坂峠は標高328mで、北の坊ケ峰から南の浅間神社の尾根上のピーク間にある鞍部であり、この尾根筋が三河国(愛知県)と遠江国(静岡県)の境となっている。
本坂峠は、ハイキングコースが交差するため各方面への道標が建っている。

弘法水 旧本坂トンネル道標 ケルン 水場
本坂峠を過ぎて小石がゴロゴロしている急坂を下ると、左手の岩根に穴があり、傍らに弘法水の案内板が建っている。
岩根の水は、昔、弘法大師がこの地を訪れた際、喉を潤したと言われている。
弘法水を過ぎて道がややなだらかな下り坂になると、右手の谷筋に向かう旧本坂トンネルへの道標が2ヶ所に建っている。
小石がゴロゴロしている下り坂の脇には、登山者が積んだケルンが2~3ヶ所ある。
左手斜面には大きな岩も見られ、街道にある大きな岩や小石はこうした岩が崩れてきたものと思われる。
左斜面から下ってくる沢筋に出ると、水場の立札が建っている。
沢の脇にブロックで造られた水桶があるが、沢から引かれた管が外れており、使用不能の状態になっている。かつて旅人は、この沢の水で喉を潤したのであろう。

嵩山(すせ)七曲り 浅間神社分岐 旧国道横断 嵩山一里塚跡
水場の先はくねった道で嵩山七曲りと呼ばれており、先で沢と合流しているが、僅かに高くなっているので水が流れていても通れると思われる。
沢道には、小さな丸太橋も架かっている。
更に下ると左手に上っていく浅間神社への分岐がある。
街道はこの前を通り、その先で橋を二つ渡って行く。一つ目の橋はこれまでの沢に架かる橋で、その先の橋は右手の谷から流れる茶旧川に架かる茶旧川橋である。
茶旧川橋を渡った先で旧国道に突き当たり、横断してその先の杉林の道に入っていく。
旧国道の手前には、姫街道碑と姫街道道標が建っており、杉林の入口には姫街道嵩山宿の幟と姫街道道標が建っている。
杉林の道を下って行くと、左側に豊橋市指定史跡の嵩山一里塚跡がある。
嵩山一里塚は、本坂通の三ケ日宿と嵩山宿の間の本坂峠嵩山側の中腹に設けられたものである。ここは、江戸日本橋から数えて73里目の一里塚跡である。

姫街道案内板 舗装路合流 嵩山到着 姫街道碑
嵩山一里塚の先の杉林の中を進み、沢を一つ越えると石畳の道となり、左に直角に曲がるところに姫街道案内板が建っている。 姫街道案内板の先の石畳の道を進むと、沢に架かる白いガードレールのある小橋があり、この橋を渡ると舗装路に合流する。
この合流点の右手筋に 「左ふどうさま」 の道標と嵩山不動滝方面の道標が建っている。
林の道を抜けて最初に目に飛び込んで来るのは、介護老人保健施設の豊橋ケアセンターの建物である。
先に進むと、姫街道嵩山宿の幟と姫街道道標が建っており、その先から嵩山の集落に入っていく。
嵩山の集落に入ると逆Y字路の手前左手に姫街道碑が建っており、正面に 「姫街道 西嵩山宿 東本坂峠」 と刻まれ、側面には江戸期の歌人香川景樹の短歌が刻まれている。
姫街道碑の向い側は、藤上公会堂である。

姫街道道標 土蔵 重王橋 豊川用水
姫街道碑の直ぐ先の逆Y字路に、姫街道嵩山宿と旧姫街道道標が建っている。
Y字路の右手筋は、国道362号の旧道で浅間神社へ続いている。
先に進むと左手に、巨大な岩を利用して石垣を組み、その上に土蔵が建てられている。
(写真は振り返って撮影)
土蔵の直ぐ先に、狭石川に架かる重王橋がある。狭石川は、あまり水は流れていないが、大雨などによる土石流対策で、護岸壁整備されており、直ぐ先で嵩山川に合流している。
重王橋の渡詰め右手には、藤下公会堂があり、その向かい側に、かつて十王堂と観音堂があったという。
先に進んで左手に流れる嵩山川に架かる本陣橋の手前右手に、豊川用水東部幹線水路があり、中藤トンネルと記されている。
豊川用水は、奥三河の山々で降った雨を大入頭首工で取り入れ、宇連ダムと大島ダムで溜め、水路によって溜池が造れない愛知県の渥美半島や静岡県湖西市へ送っている。

脇本陣跡 夏目本陣跡 旅籠跡 大日橋
本陣橋の先右手に城壁のような石垣が組まれた立派な家が建っているが、ここが江戸末期の嵩山宿の脇本陣跡と言われている。
しかし、嵩山宿は、天保14年(1843)の 「本坂通宿村大概帳」 によると、本陣1、脇本陣・旅籠無し、家数130軒となっているので、脇本陣であったかどうかは定かではない。
脇本陣跡の隣に夏目本陣跡がある。
敷地の入口にビニールで覆われた 「嵩山宿夏目本陣」 と記された紙の看板があり、植栽の前に姫街道案内図が建っている。
嵩山宿は、宝永4年(1707)の大地震で、東海道の今切の渡しが通行できなくなったため、本坂通を通行するようになってから出来た宿である。
夏目本陣跡の一本筋を挟んだ隣に、旅籠 「沢潟屋(おもだかや)」 跡がある。
ブロック塀に 「嵩山宿おもだかや」 と記されたビニールで覆われた紙が貼られている。
先に進むと150~60mほど先の 「おそよ川」 に架かる大日橋がある。
おそよ川は川幅が狭く、北の山間から流れ出る沢水を集めて流れ、大雨などによる土石流対策で護岸壁整備されており、直ぐ下流で嵩山川に流れ込んでいる。

秋葉山常夜燈 国道合流 正宗寺 嵩山工房
大日橋を渡ると、右手に文政10年(1827)の秋葉山常夜燈が建っている。
常夜燈の周りは、レンガの塀で囲まれており、隣に秋葉神社の小社が建っている。常夜燈の前は、中村公会堂であfる。
先に進むと嵩山交差点で国道362号に合流し、ここからは、暫く、車の往来が多い道を進むこととなる。 嵩山交差点の右手筋に、臨済宗妙心寺派の嵩山正宗寺(しょうじゅうじ)寺標が建っている。正宗寺は、鎌倉時代の永仁年間(1293-99)に宋から渡ってきた日顔禅師により創建されたと伝えられている。達磨大師ゆかりの嵩山(すうざん)の地形に似ていたことから、嵩山(すせ)と名付けたことが、地名の由来と言われる。
正宗寺は、ここから700m程上ったところにあるため、寄らずに先に進むこととした。
正宗寺寺標の直ぐ先、右手に 「筆の里」 の看板が建っている。
ここは江戸時代より伝わる豊橋筆の工房であり、伝統工芸士を中心とした数名の職人により筆が作られている。

北前船模型 旧道口 市場橋 国道合流
嵩山工房 「筆の里」 から200mほど先の右手に,、船の模型を展示している建屋がある。
中をのぞくと、北前船をはじめとした帆船の模型が展示されている。
北前船模型のある建屋から250mほど先の、嵩山市場バス停の手前左手に、南に入る筋があるが、この筋が旧道である。
この筋を進むと国道362号に並行する道に突き当たるので、そこを右折していく。
この枡形道が、嵩山宿の西口に当たる。
枡形道を抜けると、天神川に架かる市場橋がある。ガードレールがあり、道路の色が若干違うので橋があることが分かる。
天神川は、ここより1㎞ほど北側にある上池(そらいけ)を水源とし、直ぐ下流で神田川に流れ込んでいる。
市場橋から300mほど先で、国道362号に合流する。

長楽鉱山入口 正八幡社 長楽の檜 旧道口
国道362号に合流して350~60mほど進むと、右手筋に中採長楽鉱山入口の標柱が建っている。
奥の山肌が白く見えるところが採石現場のようであり、石灰岩を採掘しているという。採掘した石灰岩は品質によって、大きく値が異なるそうである。
長楽鉱山入口から採掘場に向かって300m程入ると、正面の森の中に正八幡社がある。
正八幡社の創建年代等は不詳であるが、ご祭神は、品陀和気命(ほむだわけのみこと=応神天皇)で、境内には頌勲社などの境内社のか、御神木のツブラジイとタブノキがある。
街道に戻って長楽鉱山入口の向いの筋を南に150mほど入ると、右手に長楽の檜がある。
長楽の檜は推定樹齢300年といわれ、根元は落雷により空洞となっており、金属の棒で支えられ、尖端は枯死している。
隣には推定樹齢250年の長楽のクロガネモチの木があり、周囲には地蔵堂と鎌倉古道を詠んだ歌碑が建っている。
街道に戻って500mほど進むと、左手の 「人形の松島」 の看板のところから左に入る旧道が残っている。
この旧道は弓形になった道で、120~30mほど先で国道362号に合流する。

国道合流・長楽寺 秋葉山常夜燈 長楽一里塚跡 馬頭観音
国道362号との合流地点に長楽寺寺標があり、手前の道を左に入ると、右手に臨済宗妙心寺派の龍尾山長楽寺がある。
長楽寺の創建年代等は不詳であるが、境内には弘法堂・位牌堂がある。また、石仏群の中には、「右ごゆ道 左よし田道」 と刻まれた石仏があるというが、確認はできない。
国道に合流して先に進むと、左手に秋葉山常夜燈が建っており、傍らに 「右豊川 左豊橋」 と刻まれた自然石の道標がある。
ここは道標の前から左に延びる吉田道との分岐である。
続いて170~80mほど先の竹林の前に、長楽一里塚跡跡がある。
塚などの痕跡はないが、平成8年(1996)に建てられた姫街道長楽一里塚碑が建っている。ここは江戸日本橋から数えて74里目の一里塚跡である。
長楽一里塚跡の先で右手の豊橋市立石巻中学校前を通り、その先で和田辻交差点を渡り、更に切通のような木々が茂った緩やかな下り坂を進むと、右手の段上に馬頭観音と弁慶首塚云々と刻まれた石碑が建っている。
大正13年(1924)の馬頭観音は立体的な馬の頭が陽刻され、前の道路を挟んだ向かい崖上には南北朝時代の高井城址がある。

小倉橋 直線の道 旧道口 当古の渡し付近
直ぐ先の小倉橋で牟呂用水を渡る。
ここはT字路の小倉橋交差点で、車の往来が激しく、牟呂用水に沿った道を右折する車が以外と多。この道には 「しょうぶ街道」 の標識が建っている。
牟呂用水は、豊川を取水源とし、愛知県東部を流れる農業用水路である。
小倉橋の先は一気に開け、左右ともに水田が広がっている。 真直ぐの国道362号を進み、国道がやや左にカーブするところで、右と云うよりは真直ぐ進む旧道がある。
この道は、その先で豊川の堤防に突き当たる。突き当たったところは、かつては当古の渡しであった。
豊川の堤防に上がると葦などに覆われた河川敷が見えるが、この辺りが当古の渡し付近である。昭和9年(1934)の架橋以前は、渡船によって対岸へ渡っていた。
現在は、下流の当古橋で渡っていく。

当古橋 当古の渡し付近 当古集落 秋葉神社
豊川(とよがわ)は、北設楽郡設楽町の鷹ノ巣山に源を発し、愛知県東部を流れて三河湾に注ぐ、総延長77㎞の河川である。
当古(とうご)橋は、昭和61年10月に改築され、上下流に歩道が設けられている。
当古橋の上流50m付近が、当古の渡場跡である。渡船は、当古村の庄屋を務めた中村家が渡船御用を任ぜられ、以来、安政6年(1858)に村に権利が移るまで、当古の渡しの運営にあたった。
当古橋の渡詰め左手に当古橋公園があるが、ここは当古村の庄屋を務めた中村家の屋敷跡である。
当古の渡し付近の逆側、堤防下から当古集落が始まり、国道362号に並行して旧道が通っている。 当古集落の中を進むと、右手に文政2年(1819)の秋葉山常夜燈が建っており、その奥の一段高いところに秋葉神社がある。
街道沿いには、「時ハ吾人ノ生命ナリ」 と刻まれた常夜燈が建っている。

古川橋 蓮花寺 三谷原神社 金剛寺
秋葉山常夜燈の先を進んで国道362号に合流すると、程なく古川に架かる古川橋がある。
一見して橋があるように見えないが、白のビニールフェンスの欄干があり、右手に小川の古川が見える。
古川は、この付近に多い農業用水路の一つのようである。
古川橋の先を進み睦美保育園を過ぎると、右手のイタリアンレストランMaisの裏の筋の突き当りに、曹洞宗の天王山蓮花寺がある。
蓮花寺の創建年代等は不詳であるが、境内には観音堂のほか、地蔵菩薩・石祠、歴代住職の卵塔があり、境内の前に立派な土地改良記念碑が建っている。
街道に戻ると、直ぐ右手に三谷原神社がある。
三谷原神社の創建年代は不詳であるが、昔、雨谷天神と称し、大正2年(1913)字住吉鎮座の天神社と境内社八剱社、天神社を合祀して、三谷原神社と改称したと言われている。
拝殿は格子戸で閉ざされて、中は全く見ることが出来ないが、脇には境内社が三社ある。
三谷原神社前から170~80mほど先の左手筋を入り、更に左手一本目の筋を進むと、臨済宗妙心寺派の金剛寺がある。
金剛寺の創建年代等は不詳であるが、東三河四郡弘法大師霊場の第22番札所となっており、境内には一面六臂の青面金剛の庚申塔、石祠のほか、道標を兼ねた西国順拝碑、木製の常夜燈などがある。

寿命院 霞堤 熊野神社 十王堂
街道に戻って250mほど進むと、左手街道脇に真言宗醍醐派の松亀山寿命院がある。
寿命院の創建年代等は不詳であるが、本尊は不動明王で、三河新四国八十八ヶ所霊場第41・42番札所となっている。
寿命院の脇の道を南に進むと霞堤に突き当たり、堤の前に霞堤の説明版が建っている。
霞堤はその形から鎧堤とも呼ばれ、江戸時代の吉田城主池田輝政が豊川沿いに造らせたとされる独特の堤防である。
設置された説明版は、完全に文字が消えて読めないので、豊川教育委員会のホームページを探してみた。
街道に戻って進み、馬場町交差点を横断地下道で渡ると、右手角に熊野神社がある。
熊野神社は、弘治2年(1556)紀伊の国熊野より新宮大明神を奉斎創始したと言われる。
御祭神は伊邪那美命で、境内には金比羅神社・八幡神社・稲荷神社・天王神社の境内社がある。
馬場町交差点で国道362号から愛知県道5号に入り、その先250mほどの右手にあるミニストップの角を右折して、次のY字路を右に入ると、左手の馬場町民館の敷地に十王堂がある。
十王堂には地蔵菩薩を中心に、閻魔大王・奪衣婆像などが祀られ、十王堂の脇には役行者・観音菩薩・馬頭観音などの石造物がある。
また馬場町民館の脇には、秋葉神社が祀られている。

三明寺 姫街道踏切 素戔嗚神社 豊川稲荷
街道に戻って100mほど先のタイヤ館向いの筋を右折して行くと、左手に曹洞宗の龍雲山妙音閣三明寺がある。
三明寺は、大宝2年(702)の創建と言われ、平安時代に戦火で焼失したが、南北朝時代に再興されたという。境内には、享禄4年(1531)の三重塔、豊川弁財天、三徳稲荷、弘法堂などのほか、たくさんの石仏や本願光悦入定塚などある。
街道に戻って進むと姫街道踏切があり、JR]飯田線と名鉄豊川線を渡っていく。 姫街道踏切を越えると幅広な中央通り(県道5号)となり、340~50m先の右手に素戔嗚神社がある。
素戔嗚神社は、永治元年(1141)領主田辺隼人が、今水寺の僧享伝法印に命じ、初勢天王宮を祀ったのが始まりと伝えられている。境内には、皇太神宮・津島神社・秋葉神社・三尺坊・稲荷社の境内社のほか、手筒花火で変色した狛犬などがある。
本日の街道歩きは、素戔嗚神社で終了し、本日の宿泊ホテルクラウンヒルズ豊川へ向かう途中、豊川稲荷に寄って行った。
豊川稲荷は、曹洞宗の寺院で、正式寺号は円福山豊川閣妙厳寺という。嘉吉元年(1441)曹洞宗法王派の東海義易によって創建された。本尊は千手観音であり、境内に祀られる秘仏 「豊川吒枳尼真天」 の稲穂を担いだ姿などから、一般に 「豊川稲荷」 と呼ばれている。

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