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姫街道   (豊川~御油追分


令和元年5月5日(日)    ☀|☁    豊川~御油追分    7.0㎞
本日は、豊川から御油追分までの短い距離で平坦な道であるが、途中には八幡宮や三河国分寺跡などもあるので、それらに寄りつつゆっくり進んで行く予定である。昨日は宿に入る前に豊川稲荷に参拝したが、今朝は午前5時が開門だったので、朝食前の散歩がてら人気のない豊川稲荷に参拝し、境内の西にある海軍工廠戦没者供養塔へお参りをした。

海軍工廠戦没者供養塔 県道5号 金屋橋 秋葉山常夜燈
豊川稲荷の西に海軍工廠戦没者供養塔が建っていおる。
豊川海軍工廠は、昭和20年(1945)8月7日、米軍B29の爆撃を受け2千有余の人々が犠牲となった。ここには昭和32年に建立された供養塔、亡くなった方の出身地碑、地蔵菩薩立像などがある。
昨日の続きは素戔嗚神社からであり、この先は真っすぐ延びる県道5号国府馬場線が、先に見える山並みへ向かっている。 中央道りを先に進むと、佐奈川に架かる昭和34年(1959)1月竣工の金屋橋がある。
佐奈川は、豊川市千両町に源を発する延長14㎞ほどの二級河川で、下流で三河湾に注いでいる。
の手前右手は中央通公園となっており、豊川土地区画整理完工の碑などが建っている。堤防には桜並木があり、河川敷は菜の花が咲く遊歩道が整備されている。
金屋橋を渡り、その先の中央通り5丁目交差点を右折すると、右手のY字路の中央に明治42年(1909)の秋葉山常夜燈が建っている。
傍らには秋葉神社の石祠が建っている。

海軍碑 豊川市役所 豊川市総合体育館 諏訪橋
街道に戻ると、直ぐ右手の中日新聞社豊川通信局の前に、「海軍」 と刻まれた小さな石碑が建っている。
中央通り5丁目を右折する筋の奥には、陸上自衛隊豊川駐屯地がある。
二つ先の豊川市役所前信号を右折すると、突き当りは豊川市役所で、入口に 「華煌」 と題された清水良治作の女性の像が建っている。 続いて右手に豊川市総合体育館が建っており、広い敷地にはいくつかのオブジェがある。 先に進むと諏訪川に架かる平成11年6月竣工の諏訪橋がある。
諏訪川は地図で見ると分かるが、直線的に流れており、農業用水路として整備された川のようである。

長栄寺 諏訪神社 本宮山遥拝所碑 諏訪一里塚跡
諏訪橋を過ぎると右手に、曹洞宗の大乗山長栄寺がある。
長栄寺の創建年代等は不詳であるが、境内には空襲により頭の欠けた観音像がたくさん残されている。
長栄寺の西側に隣接して諏訪神社がある。
諏訪神社の創建年代等は不詳であるが、ご祭神は建御名方神(たてみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、信州諏訪神社より勧請したという。
境内には秋葉神社・護国神社・中山神社の境内社などがある。
街道に戻ると直ぐ右手に、本宮山遥拝所がある。この碑は、標高789mの本宮山頂上にある砥鹿神社本宮山奥宮を遥拝するため、天保13年(1842)に建立されたものである。 本宮山遥拝所の斜向かいに、姫街道諏訪一里塚跡がある。
一里塚跡碑の側面には、「爆弾投下地」、「諏訪の大鳥居建立地前」 と刻まれている。
ここは江戸日本橋から数えて76里目の一里塚跡であり、御油追分から最初の一里塚跡である。

白川橋 郡神社社標 永昌寺 筋違橋
諏訪一里塚跡から程なく、白川に架かる平成24年(2012)竣工の白川橋がある。
白川は、豊川市戝賀町に源を発し、稲束川、代田川、西瀬古川を合わせた後、下流で三河湾に注いでいる全長12㎞ほどの二級河川である。
白川橋を渡ると、その先の白川橋西交差点の右手筋に角に、「国内神名帳郡明神是ヨリ十五丁」 の標柱が建っている。
これは、ここより1.5㎞ほど北にある伊知多神社のことであり、養老2年(718)この地に天児屋根命を祀り、郡神社という。
直線の道をどんどん進んで、八幡町横道西交差点で県道31号を渡ると、右手に曹洞宗の宝珠山永昌寺がある。
永昌寺の創建年代等は不詳であるが、境内には地蔵菩薩・観音菩薩・弘法大師・馬頭観音などの石造物がある。
永昌寺の先を600mほど進むと、西古瀬川に架かる平成22年12月竣工の筋違橋がある。
西古瀬川は、ここより北側を通る東名高速道路の近くにある駒場池を水源とし、下流で白河に合流し、その先で三河湾に注いでいる。
筋違橋の少し上流の両岸には、近年植えられた河津桜と菜の花の遊歩道が1.8㎞にわたって続いている。

十王堂 八幡宮社標 八幡宮 三河国分寺跡
直違橋交差点で西古瀬川を渡り、右手(北側)の筋を入っていくと、変則十字路の角に十王堂がある。消火栓の脇の建屋は、六地蔵尊の覆屋である。
十王堂内には十王像と奪衣婆像、弘法大師像が祀られている。
街道に戻って進むと、直ぐ先右手に八幡宮の社標が建っている。
この筋を北に入ると、西古瀬川に架かる宮前橋があり、橋の渡詰め左に文化8年(1811)の常夜燈とその脇に駒嶽社・秋葉社の石祠が建っている。
常夜燈の脇の筋を奥に進むと、突き当りに八幡宮がある。
八幡宮は、第40代天武天皇の白鳳年間(7世紀半ば)に大分県宇佐八幡から勧請されたと伝えられている。本殿は文明9年(1447)室町時代の建築で、三間社流造桧皮葺で国の重要文化財となっている。境内には、高良社・天満宮を始めたくさんの境内社があり、本殿脇には内宮・外宮がある。
八幡宮の東側に三河国分寺跡がある。
国分寺は、奈良時代中頃の天平13年(741)、第45代聖武天皇の詔により全国に建立された寺院で、僧20人を置くことが定められていた。三河国にいては、国府に近いこの台地に国分寺の七堂伽藍が建てられた。
跡地には、平安時代のものと言われる梵鐘や十三仏の石像などがあり、跡地の隣には曹洞宗の国府荘山三河国分寺がある。

桜地蔵尊 旧道口 曹源寺(国庁跡) 弘法大師像
街道に戻って進むと、佃交差点の右手に桜地蔵尊がある。
地蔵堂の脇には、南無桜地蔵大菩薩と刻まれた標柱が建っている。
桜地蔵尊の前の佃交差点で向い側(南側)に渡ると、左手に旧道痕がある。
この道は、弓なりになっていて250mほど先の上宿会館の前で、再び元の道に合流する。
旧道出口の上宿会館手前の左手筋を南に進むと佃交差点で分かれた道に突き当たり、ここを右折すると右手に東三新四国第六十五番札所標柱があり、この脇を北に進むと曹洞宗の青竜山曹源寺がある。
曹源寺の創建年代等は不詳であるが、近年の発掘調査によって、8~10世紀中頃まで国府の国庁があったことが確認されている。現在は宝篋印塔や石仏があるのみで、解説等はない。
曹源寺を出ると、直ぐ左手の民家前に弘法大師像がある。

三河総社 久保神社 船山古墳・上宿神社 県道5号高架
弘法大師像の斜向かいに、三河総社がある。総社とは、国司が国内の神社を巡拝する労を省くため、祭神を一か所に合祀した神社であり、平安時代になると各国の国府近傍に設けられた。
境内には、大宝2年(702)高市黒人が持統天皇の三河国御幸に同行した際に詠んだとされる万葉歌碑がある。
三河総社から街道(県道5号)に戻る途中、三河総社の西側に久保神社がある。
久保神社は、平安時代の天台宗の僧・大江定基が三河守として赴任していた頃に創建されたと言われている。
境内には、社宮社・大和神社などの境内社のほか、伊勢神宮遥拝所がある。
街道(県道5号)に出て先に進むと、上宿交差点の手前右手に船山古墳がある。
船山古墳は、三河地方最大級の前方後円墳で、全長94m、後円の径56m、前方の幅65m、高さ6.5mで、5世紀後半の築造といわれる。
古墳の登り口は二ヶ所あり、いずれも上宿神社の標柱があり、墳丘上には津島神社・秋葉神社が祀られている。
上宿交差点の先は、その先の名鉄名古屋本線を渡るため、県道5号は昭和48年3月に施設された高架道となっている。
このため高架脇の道を進んで行くこととなる。

西明寺寺標 西明寺 高架歩道橋 御油追分
高架の右手の道を進むと、右手段上に西明寺寺標があり、傍らに不許葷酒入山門碑・宝篋印塔が建っている。この右手に延びる筋は西明寺への参道である。
またこの一角には、寛保3年(1743)国府の俳人米林下才二(べんりんげさいじ)が芭蕉50年忌に建てた芭蕉句碑がある。
西明寺寺標の右手筋を600mほど北に入ると、曹洞宗の大寶山西明寺がある。
西明寺は、三河の国守大江定基が東三河のこの地に赴任した際、最愛の妻を失い、東の岡に庵を営み六光寺と名付けたことに始まるという。当初は天台宗であったが、鎌倉時代に曹洞宗となり最明寺と改め、更に江戸時代に西明寺と改めたという。境内にはドイツ人医師ベルツ博士ゆかりの菩提樹、水原秋櫻子の句碑などがある。
街道に戻って県道5号の高架歩道橋で名鉄名古屋本線を越えていく。
架の左手は国府駅で、高架を渡るとその先は国道1号で分断されている。
国道1号を追分交差点で渡って街道に復帰し、120~30m先で県道368号に合流すると、その先で旧東海道に突き当たる。
ここには 「左ほうらいじ道」 と刻まれた常夜燈、国幣小社砥鹿神社道道標、秋葉山三尺坊大権現道道標が建っている。
ここで姫街道は終了であり、以前歩いた東海道を御油方面に少し歩いて、御油駅から帰宅の途に就いた。

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