当地は、豊川右岸の沖積層に位置し、縄文弥生の頃より豊川の洪水によってもたらされた沃野に、農耕の適地を求めて多くの人が移住した。また一方、度重なる大洪水により住民みな流失四散の憂きめを何度となく繰り返してきた。然るに古田藩主池田輝政公の頃、全国にも稀な霞堤の築造を見、一応の安住の地をて栄てきた。
近年、急速な地域社会の転換期を迎え、農業の近代化と合理化、生産性の向上が叫ばれる中で、ほ堤整備をとの声が上がり、町民相寄り、相計り、当局の御指導を得て、昭和60年、三谷原町と牧野町の一部の48ヘクタールの地に、県営ほ場整備事業豊川東部第二地区三谷原二区の計画がなされた。以来8年有余の歳月を経て、生産基盤の整備と快適な農村環境の樹立を見るに至った。
ここに関係組合員の御協力と役員各位の献身的な努力に感謝し、祖霊ましますこの地の益々の発展と繁栄を祈念して碑を建立し、一文を草し、永くこれを記念する。
平成4年3月吉日
沿革 (裏面)
土地改良碑
歴代住職の卵塔
地蔵菩薩 ・ 供養塔
石祠
観音堂
蓮花寺本堂
観音堂内陣