延宝7年(1679)の手水石

弁天池

ずっと昔のことです。三明寺の前の姫街道は、旅人や馬方がよく通りました。満月が東の空に上りかけた秋の夕暮れのことです。仕事帰りの馬方が、今日も楽しそうに歌を歌いながら三明寺の前を通りかかりました。すると、突然美しい女の人が目の前に現れました。
「もしもし、馬方さん。私は、この三明寺の弁天です。私はあなたが通るのをとても楽しみにしていましす。あなたの声が美しいからです。これからもここを通るときには歌っておくれ。そのお礼に、この財布をあげましょう。」 と言ってその女の人は、馬方に赤い財布を渡しました。
「その財布にはいつもお金がは入っています。いくら使っても終わることが無い不思議な財布です。でも、私に貰ったとということは決して話してはなりません。」
そう言ったかと思うと、女の人の姿はパッと消えてしまいました。
それから馬方は、雨の日も風の日も三明寺の前を通るときは心を込めて歌いました。財布のお金は弁天様の云った通り、いくら使ってもなくなりませんでした。幾日か経ちました。馬方は、財布のお陰で欲しいものがなんでも買えました。贅沢な暮らしをしていくうちに、仕事もしないで怠けるようになってしまいました。仲間の馬方たちは、不思議でなりません。集まるたびに色々と噂しました。
「おい、あいつこの頃怠けているぞ。」
「仕事もしないでどうやって金を設けているんだ。」
「何か訳がありそうだな。」
「見ておれ、今にバチがあたるぞ。」
ある日、馬方は仲間たちと一緒にお酒を飲んでいました。
「お前は働かないで、何をして金を儲けているのだ。」
馬方は、お酒のせいでいい気持ちになっていました。
「実はな、ある日の事よ、俺が三明寺の前を通りかかったんだ。すると綺麗な女が現れてな。・・・それは弁天様だったのさ・・・。」
ここまで話して、馬方はしまったと思いました。急いで財布に手をやりましたが不思議なことに、今まで重かった財布は急に軽くなり、何も入っていませんでした。それから馬方は心を入れ替え、毎日休まず働くようになったということです。
このような話が伝えられるようになってから、誰云うとなく三明寺の弁天様を「馬方弁天」と呼ぶようになりました。

本堂
 正徳2年(1712)に再建された桁行五間・梁行五間の本瓦葺きの本堂です。堂内の天井は格天井で極彩色画が描かれ、彫刻ともに大らかで元禄・正徳年間頃の特徴をよく表しています。
 この本堂再建に際しては、豊川村の有力者であった中田(小笠原)四郎右衛門義忠親子が近隣の四十八か村から数千人に及ぶ人足の協力を得て工事を進めたという古文書も残っています。
 建築にあたった大工は、牛久保村の岡田善三郎成房ですが、地元大工の優れた技量と知恵がうかがえ、近世の東三河の地方的な特色を備えた仏堂といえます。

宮殿
 宮殿は本堂内にあって、本尊の弁財天を安置する厨子です。天文23年(1554)の建造で、一間社流造、高欄脇障子付の縁を巡らし、屋根は柿(こけら)葺きです。桁行・梁間ともに1m余、高さ4m余の木造建築で、小社殿の趣を持ちながら、柱・屋根などの主要部材や組物・垂木などの細部に至るまで良好に保存されており、室町時代末期の様式をよく伝えています。
   (豊川市教育委員会)

拝殿に掛かる辨才天の扁額

拝殿内に掛かる妙音閣の扁額

豊川弁財天堂拝殿

 三明寺は、寺伝によれば大宝2年(702)の創立といわれています。平安時代の末に一度戦火にあい焼失しましたが、南北朝時代に、後醍醐天皇の皇子無文元遷が遠州方広寺に行く途中ここに立ち寄り、その荒廃を嘆いて再興したと伝えられています。
 諸堂中最も古いこの三重塔は、享禄4年(1531)の建造で、総高14.5mの柿葺(こけらぶき)です。
 一層、二層を和様に、三層を禅宗様にしたのが全国的にも珍しく、三層の軒の反り、扇垂木、鎬(しのぎ)のある尾垂木などに禅宗様の意匠が認められます。
   (豊川市教育委員会)

弁天橋 (神橋)

三重塔由緒

三重塔

豊川弁財天の鳥居

三明寺にまつわる昔ばなし

観音霊場石仏・馬頭観音・地蔵菩薩など

宝飯の聖泉

弘法堂

三徳稲荷

狛狐

三徳稲荷拝殿内

豊川辨財尊天の提灯

豊川弁財天宮殿

三明寺本堂と本堂内宮殿説明

 この塚は前住開山出羽の国(東北地方)の出身で、仏縁あり当山の宮殿を建立する。和尚は余命を悟り厳しい修業の入定を発心、七日間塚の中で独経され、弘治2年2月27日に示寂される。この塚に松を植え後世の人に語り伝えられた。

本願光悦入定塚説明

天保11年(1840)の常夜燈

本願光悦入定の塚

龍雲山妙音閣三明禅寺の寺標が貼られた山門

本尊千手観音菩薩を祀る三明寺本堂

聖観世音菩薩立像

本堂は境内の一番奥にある

文久4年(1864)の豊川辨財天道標

弘法堂内陣

狛狐