当社の由緒については詳らかではない。新編武蔵風土記によると、長津田村大石大権現と称し、在原業平朝臣を祀ったものと伝えられてい入る。
 万有百科辞典によると業平朝臣は平安時代前期の人(825-80)平城天皇の孫にあたらせ古今の和歌の先駆をなし、美男で放縦な性格を持つと記されている。御神体は楕円形の自然石で文字等の刻込みはなく、本殿に四角な台座に下部をはめ込んで立ててある。

 台座の上に現われている部分の高さは1.35m、中央部の一番広い所の幅1.10m、上部は漸時細くなりて突起となる。正面から見ると円味をおびいかにも均衡の取れた形のよい石と田奈郷土史にもきされている。神石は武蔵、相模両国の国境にあったが、百姓その帰属を主張して譲らず、遂に争いとなり神意により武蔵に鎮座したものと言われる。
神石のあったところと称する地点を元石と言い、今なおその地名が現存しているのである。また、在原業平朝臣は東国下向時、この地でその討手か賊かに取り囲まれ、周囲から火を放たれあとには大きな石が一つあったという。以上が神石にまつわる伝説である。その真偽については問う所ではない。

大石神社由来

長津田十景

明治元年(1868)の大石神社碑

明治27年(1894)の石祠

稲荷神社

稲荷神社本殿

文政10年(1827)の手水石

街道に面した参道石段

二の鳥居

手水舎

 下って、元禄7年(1694)5月、領主岡野平兵衛等社殿を修復し、更に宝暦2年(1752)6月、社殿を造営した旨、旧本殿の棟札に記してあった。
 大正12年(1923)5月、神明社、稲荷社を合祀し、同年9月1日関東大震災により石造本殿が崩壊し、宮内省より御用材を賜り再建したが、早急のため粗末であったので昭和35年(1960)10月蔵造りに建替えた。またこの当時まで境内に業平竹という竹林があったが、今はいずこにもそれらしきものは見当たらない。
 宗教法人法により昭和28年(1953)8月、神社本庁所属の宗教法人を設立、宗教団体として届出て今日に至る。
 近年になって平成3年(1991)7月、本殿、拝殿改修を実施し、その後宮下氏子より幾度となく建て替えの声が上がり、平成23年(2011)3月の東日本大震災を機に老朽化と耐震性を考慮し摂社・末社を合わせて平成25年(2013)3月、宗教法人大石社、本殿・境内整備建設委員会を立ち上げ、本殿・拝殿・神楽殿・社務所を整備し、宮神輿も合わせて新調することとなった。

③ 大石観桜(おおいしかんおう)
 王子神社とともに長津田の鎮守である。境内に続く坂の途中には上宿常夜燈があり、宿の名残を感じさせる。市指定の名木とともに桜があり春には美しく開花します。大石神社は長津田の西方の小高い丘の上にあり、南が正面で大山街道に接しています。ご神体は石神で、この大石には在原業平朝臣をはじめ、いくつかの伝説があります。

大石神社拝殿

拝殿に掛かる大石神社の扁額

嘉永6年(1853)の阿形の狛犬

嘉永6年(1853)の吽形の狛犬