伊勢橿原神宮参拝記念碑

安永8年(1779)の三宝荒神

安永2年(1773)の当社奥院鷲宮本地釈迦牟尼仏石祠

安政3年(1857)の仏像が刻まれた石祠

文化3年(1806)の文字庚申供養塔

稲荷大明神石祠

元文5年(1740)の一面六臂の青面金剛の庚申塔

明和7年(1770)の石宮御神躰石祠

左から三峯神社、浅間大神、大山祇尊大権現

邨社鷲宮神社社標

 西粂原鷲宮神社は、北から南に江戸時代中期につくられた黒沼笠原用水が流れる台地上にあり、社前には御成街道(日光御成道)が通っている。江戸時代に編纂された 「新編武蔵国風土記稿」 には、この神社は村の鎮守で明智寺持とある。明治時代には村社となり、毎年3月10日、9月9日に祭礼を行なっている。また、明治40年には、愛宕神社、雷電神社、厳島神社、稲荷神社、猿田彦神社、三峰神社の6社が合わせ祀られている。
 社前を通る御成街道(日光御成道)は、概ね中世の鎌倉街道の道筋を、江戸時代に将軍が日光へ社参(参詣)するために専用の道として整備されたものである。中山道本郷追分を基点として、岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻、そして町内の久米原、国納、和戸を経て幸手で日光街道に合流する道筋である。
 将軍の日光社参は、記録によれば慣例となったのが寛永期(1624-44)以降で、19回を数える。「日光御成道絵巻」(県立博物館蔵)には、道中の村々の様子や 「鷲明神」 と記された社殿が克明に描かれている。これにより当時の久米原村、国納村、和戸村の様子をうかがい知る事が出来る。また天保14年(1843)4月、12代将軍家慶の社参の記録(旗本稲生家文書)によれば、西粂原鷲宮神社にて将軍が小休止したとある。(宮代町)

西粂原鷲宮神社由緒

手水舎

鷲宮神社石鳥居

手水石

安永2年(1773)の愛宕山大権現石祠

文政2年(1819)の仏像が刻まれた石祠

阿形の狛犬

吽形の狛犬

鷲宮神社拝殿

鷲宮神社本殿